テンポラリー

そのときに思いついたことの備忘録。租税について考えることが多い

医学部定員制批判

日本医療界の不整合について


■結論
簡潔にいえば、日本医療の臨床・研究・教育の多忙さの原因の元をたどれば、医学部定員制に尽きるという言のほかない。それが厚生労働省の医療政策をゆがめ、医療者と国民の医学知識の非対称を生み出し、医療者から教養を奪い、医療者を疲弊させている。

■序
正直にいえば、日本の医学部・医療界は世間一般の常識がすべて通用しない。
本来、医師は賢者である。統治論を著したジョン・ロックは医師でもあった。彼のごとく、哲学や社会思想は「人とはなにか」をよく知る者が拓いていくべきだ。
しかし、日本の医師は医学については最高の知識を持つけれども、それ以外の知識、いわゆるリベラルアーツ・一般教養については、他学部で教育を受けた者に比べて明らかに劣る。何らかの想いは必ず持っているだろうが、それを昇華しようというところにまで至らない。個人の趣味の範囲がどうというレベルではない。これには、彼らが受けてきた教育や環境に原因があるとみるしかない。
そこで、医学部・医師の関係と、その他の学部・専門職の関係とを比較しながら、それを示し、医療界の異常さが臨床・研究どちらの現場にも負担を強いていることを簡単に考えてみたいと思う。

■士業の場合
たたえば法曹の場合。
日本では司法試験に合格後、司法修習の段階がある。司法試験に合格しているのだから、修習生には法律的な基礎知識が十分ある。ただ、司法試験に合格した段階では、事実がはっきりしている事例の法適用についてしか学んだことがない。断片的な証拠や事実にどうやって法を適用していくかという実務の知識はない。司法修習の授業はその足りない部分にフォーカスして行われる。教官も法律的な基礎知識が足りないことで理解が出来ない修習生の面倒を見る必要はない。日本ではこの司法修習を裁判所が公費で担い、他の国でも類を見ない高水準の法曹養成システムを維持してきた。ただし、旧制度では2年の修習期間だったものの一部をロースクールでの教育に回す建前で、現行は1年の修習になっているが。
いずれにしても、これだけのことをするには予算が限られる。法曹を増やすために、外国にならってロースクールを構想したとしても、その後の司法試験で合格者を拡大できるわけではなかった。予算制約を、司法修習給付金を貸与金にしてでも破ろうともしたが、やはり修習後の就職口がなく、借金に追われる弁護士の貧困が問題視されることとなった。結果、ロースクール生がそのまま全員法曹になるという構想は失敗した。他国でロースクール制度が機能しているのは、合格後の実務教育をそれぞれの法務機関にまかせているからだろう。民間弁護士事務所が実務の中で教育をする程度にとどまるなど、決して法曹としての質の水準を一定に保つような制度にはなっていない。
いずれにしても、我が国では、旧司法試験制度では、法学部で学んだ経験のある無しに関わらず法務省の実施する司法試験の合否のみで判定することとしていたし、新司法試験制度に移行した現在でも、ロースクール以外のルートとして予備試験を用意することとした。
このような座学の先の、実務研修段階における問題は他の資格でも見られる。たとえば公認会計士では2006年前後に国の政策で会計士を増やそうと、アカウンティングスクールなども多数設置され、合格者数も2〜3倍に増やした。しかし、その後3年の補習所研修が必要だが、その研修を担うべき監査法人がその人数を受け入れきれず、就職難民が大発生した。それにより、会計士試験を受ける人が激減してしまった。それにも関わらず、同じ頃、会社の内部統制監査と四半期開示が本格導入されるなど、会計士が関わるべき業務は確実に増えた。結果として、監査法人に勤務する会計士の忙しさがより深刻なものとなり、人手不足の状態に陥っている。

■医師の場合
さて、これら人文の士業と大学の関係にも様々な問題はあるものの、医学部とは事情が異なる。
これらの資格は大学教育と完全に結びついているわけではなく、その結びつきは専門職大学院のレベルであるし、また専門職大学院を経なくてもその資格を得ることは可能である。法学部の学生が全員法曹にならなければならないわけではない。経済学部・経営学部の学生が全員会計士・税理士にならなければならないわけでもない。ところが、医学部となると、医学部生全員が医師になることが前提され、医師国家試験合格後も研修は大学病院または厚生労働大臣指定の臨床研修施設で行われる。他に職業と教育が関連しているものと言えば僧侶が挙げられるかもしれないが、僧侶は国家の資格ではないので問題とならない。
現代において職業資格と教育が最も密接関連しているのが医学部といえる。そして、医学部での教育を受けないことには医師国家試験を受験することはできない。外国医学部を卒業して予備試験を受ける方法もあるが、それはごく例外にとどまる。
また、日本は国民健康保険制度の関係で、医師の数・質を確実に確保する必要もあった。そのために日本が採った手法は、医学部定員の管理であった。これによって医学部は医学教育だけでなく、日本全体の医療提供体制に対しても一定の責任を負わなければならない。だからこそ、他学部でも行われるような一般教養の教育は、医学部では入学後1,2年目の早い段階で切り上げられて、それ以降は職業人たる医師を養成するための職業大学にならざるを得ない。
浜松医科大学の大磯義一郎教授がいうには、医学部一年生の中には入学時点で心臓の絵(左右の心房・心室に分かれた図)が書けない学生もいる。そういう学生も含めて、一人前に育てなければならない。その上、アメリカならば大学とメディカルスクールで計8年かかるところを6年でやろうとする。最近では以前のように夏季休暇を長期にとれぬほどになってきているという。これで、一般人と同じだけの教養までも医学部生に習得させようとするのは、土台無理な話といえる。
もし、法学部も医学部と同じような制度になっていたらどうだろうか。司法修習の予算が決まっているからといって、法学部生のみに司法試験を受ける資格を制限し、日本全体の法学部の定員を定める。現在の法学部は、法哲学や経済法、法学史、法と経済学、社会法その他もろもろ基礎教養科目など、司法試験には無関係の様々な講義を開いている。しかし、法学部生は司法試験のための法律しか学ぶ必要がなくなるから、それらの講義は閉じられるだろう。そもそも法学部だって、ヨーロッパで大学が成立した当初は専門職を養成するための学部だったが、現代でそのような方針に回帰することには、大多数の人々が否定的な感情を抱くだろう。
医学部は当初からこのような特殊な状態にある。我が国では、ヒポクラテスの誓いが畏れ多き呪いとして作用し、医療界は医術伝道の師弟関係に対して国家の介入さえを排除してきた。その分、学府全体として6年間つきっきりに教育に集中しなければならない。教わる側は6年で済むが、教える側は継続して体制を維持し続けなければならない。
たしかに、医学における師弟関係それ自体は、医療行為が人体に対する侵害的性格を持つことから多少なりは必要であったことは認められる。しかし、大学教育だけの中で完結させてしまうことについては、別に医師国家試験というハードルがある以上、必ずしも合理的な理由が見当たらない。
さらに、0から100までを医学部が行うからこそ、医学部が親としての権力を持つ。臨床現場の医師配置さえも各医学部に委ねている。

■翻弄の様子
反面、医療提供体制については、いくら医学部が権力を持つといえども全責任を持てるわけではない。医学部が一つ一つの町のクリニックを管理することなど非現実的だ。それは厚生労働省の管轄だ。しかし、厚生労働省の提案する医療政策が必ずしも最良のものにはなっていない。
現在の日本の医療費の問題は高齢者増加が原因と一般的には考えられている。他には医療技術の進歩による高価格化もあろう(CTの多列化、オプジーボゾルゲンスマの例)。しかし、それだけで厚生労働省が現状の医療政策(「医療から介護へ、病院・施設から在宅へ」)を採用するわけがない。なぜなら病院や老人医療施設を作るほうが在宅医療よりもはるかに効率的だし、日本人が絶滅しない限りはそのような施設は必要とされ続けるのだから、本来なら道路のように建設国債を使ってでもそうしたほうが、絶対に良い。人口が減少するのであれば、老朽化した施設を建て替えたりせずに自然に潰していくだけで良い。
もし厚生労働省が医師・看護師等を自由に養成できるのであれば、このようにするだろう。しかし現実にはその能力を厚生労働省は持っていない。ハコを提供することはできるが、ヒトを提供できない。このように、厚生労働省が政策選択を誤り続けてしまう決定的な原因は、彼らが医師・看護師等専門職種の養成能力を持たず、人的資源を国民に提供したくてもできないことにある。
ゆえに、厚生労働省は診療報酬(広義的には新専門医制度も含まれる)の操作によって医師の「偏在」をコントロールしようとするのだ。医学部定員制によって、医師の養成権限の一切を医学部に委ねてしまったから、厚生労働省にはもはやどうにもできない。医師の居場所や働き方を利益的に誘導するしか方法を持たない。それが地域包括ケアシステムや、コンパクトシティ構想を生み出し、都市政策そのものにも影響をおよぼすこととなった。地域での見守りなど、全く余計なお世話という他ない。
その余計なお世話が、最悪なことに医学部教育にも影響を与えている。
医師が他の分野の教養に疎い一方で、医学の知識は医学部や看護学部に独占されている。医療職を目指さない一般人には医学を体系的に学ぶ場所が全くない。一般的な会社のなかに医学の専門知識を有している会社員がいることはほとんどない。医学そのものが一般教養にのってこない。インフォームドコンセントの徹底だの、患者・国民教育が大事だのと論じてみても、医療に対する不安が拭えない。その原因は、医学知識のなさにある。知識も無ければ学ぶ機会もないから、医療者の人柄のみにすがりたくなる。この現実を受けて、臨床重視型の医師の養成の方針が厚生労働省によって政策的に規定され、医学部教育の内容も影響を受けてきたといえる。厚生労働省は、医療従事者を地域に溶け込ませようとしているし、医療従事者自身も、自分たちこそが人格者となって地域に受けいれられなければと思いこんでいる。
医学部は医術教育を独占する一方、医療政策については提言する機会を持たないし、そもそも提言できるほどの知識すらほとんどないといっても良い。社会保障政策においては逆に国家に服従せざるを得ないという状況さえ生み出してしまった。かくて、医術以外の「よりよい人間」としての教養を求められることとなった。全人的医療などというわけのわからない標語にどれだけの医師が苦しめられていることか。
大学は広く学問の場であり、職業者の養成所ではない。医学部は医師の養成を(積極的か消極的かは分からないが)一手に担い、完全に特殊化している。一般教養を組み込む余地は一切なく、それを求めれば負担が相当に過大にならざるを得ない。
昨今、大学を「世界的研究・教育拠点」、「高度な教養と専門性を備えた人材の育成」、「職業実践能力の養成」などと機能分化させようとする政策が問題視されている。
2000年代初頭には、文系・理系の垣根を超えて、それぞれの学問の垣根を超えて新しい知を想像することが国の教育行政の方針として掲げられていた。しかし、このように大学の機能を区分してしまえば、その機能ごとに必要な基礎教養の内容も変わってしまう。すると、ひとくちに大学生と言っても、その両者が共通の知識や教養を持たず、学問的コミュニケーションに齟齬が生まれ、学際的研究を阻害する可能性がある。
これが問題視される理由は、ひょっとすると医学部教育者にはあまり理解されないかもしれない。教育・研究の場を職業訓練所として利用することは、まさに日本医学部では昔から当然に行われていたのだから。そのような仕組みを文部科学省厚生労働省が作ったのだ。

■改革モデル
上記の問題意識を踏まえ、士業養成のプロセスを模倣するならば、医師養成と医学部の関係は、たとえば以下のようになろう。

① 医学部について。医学を学びたい人は誰でも医学部行って、医師になりたければ厚生労働省が行う国家試験を別に受ければいい。看護師になりたければ看護師試験を受ければ良い。介護士になりたければ介護福祉士試験を受ければ良い。そういう専門職にならないとしても、一般社会で医学の知識を持った人間として活躍すれば良い。
② 医師養成について。基礎医学の段階で医学部生以外も受験可能な医学試験を行う。(医学部生は一部または全部の科目を免除)
③ 合格者は臨床医学修習生となり、厚生労働省の所管事業として、臨床医学と実習を行う。実習は研修事業について交付金補助金を受ける医学部または厚生労働省独自の臨床医学修習病院で行う。
④ 臨床医学も含めた修了考査を行い、合格者に医師の資格を与える。(その後の研修医制度は現行の通り)
⑤ 日本では、異常な残業時間を黙認せねばならぬほど深刻な医師不足であるし、公的医療保険によって一定の報酬が確保されているから、士業のように就職口に困るということはない。したがって臨床医学実習期間は所得状況により貸与制でも良い。

上記は単純に士業をなぞっただけだから、必ずしもこのようにある必要はない。私自身、医学教育の部外者だが、この流れの場合解剖学をどうするかなどの問題があることは承知する。それに、医師養成能力を厚生労働省が獲得するだけでよいのなら、ここまで大胆に変えなくとも良い。たとえば、防衛省防衛大学校を独立して持つごとく、厚生労働省臨床医学大学を設立するなどして、医学研究とは全く別に、自前で臨床医師を養成する機関を持てば良い。
しかし、これら改革案の内容の正しさや実現性は、今は問題としない。私は、現状の医学部と医師の関係が普通でないことを指摘したい。とにかく、なんらかの構造変革によって医学部を医師養成の重責から解放し、研究・教育に集中するのがベターと考える。
このような改革をするには、医学部が保持している権威を解放する必要がある。が、当の医学部が激しく抵抗するだろう。親権剥奪に相当するのだから当然だ。しかし、権威を持つべきなのは医学部ではなく、それぞれの医師個人であるべきだ。
まぁ、いずれにしても、現実はそのようになっていないのだから、医療者個人の努力不足・教養不足を責めるのは全く的外れなことだとの結論が得られそうだ。

■傍証
ところで、かの小泉政権は一年間に2000億円ずつ医療費を削減することを宣言し、実際にそうした。第二次安倍政権では「高齢化に伴う自然増を5000億円以下に抑える」という言い方で、医療費を抑制してきた。高齢化に伴う自然増は、年間1兆円と言われている。つまり安倍政権はこの6年間、毎年5000億円ずつ医療費を削減していることになる。世間では今でも小泉政権医療崩壊の仇のように扱う傾向があるが、実際には、安倍政権のほうが金額ベースで2倍以上も恐ろしいことをしている。
消費税が5%から8%に増税されたときも、悲惨なものであった。増税差分3%を診療報酬に上乗せする形で改定がされたが、実際には算定頻度の少ない点数だけを増点するなどし、医療機関の利益減少分の補填には完全には貢献していなかったとの指摘がある。
大学病院のようにDPC制度による診療報酬算定をしている場合でも、総じて減収になっていよう。診療報酬は総額としてほとんどゼロ改定ではあるが、医療に係る物品の医療機器の仕入れは高性能化に伴い高額になってきている。すべての医療機関で、医療従事者の賃金が上がらないのに、より多くの業務をこなすことを求められ疲弊していることは、現場を見ずとも論理的に明らかであろう。
そして、臨床も、研究も、医学部の中で行われるのであれば、研究に支障が出るのも当然のことといえる。