テンポラリー

そのときに思いついたことの備忘録。租税について考えることが多い

「ウチはウチ、ヨソはヨソ」──お母さん食堂問題

 

ファミリーマートの「お母さん食堂」という名称に疑問を持つ女子高生がネーミング変更を要請するオンライン署名活動をしていることについて批判が殺到し、いろいろと物議を醸している。
署名活動反対派は「昔から使われている、おふくろの味という意味の延長線上の言葉で、なにか女性を家事に押し込める意図と捉えるのは邪推しすぎだ」という。
一方、署名活動賛成派は「料理は女性(母親)がやるものだという観念を増長する恐れがあるから、お母さん食堂という言葉は使うべきでない」という。

これからの男女平等を考えれば、料理もその他の家事も男女ともにやるべきことで、一方の性に押し付けるべきではないという考えは正しいように感じられ、この署名活動が批判される理由はなさそうだ。
ファミリーマートは早急にお母さん食堂の名称を変更すべきようにも思える。

 

しかし、日本国憲法はそこまでリベラルな憲法ではない。家族・婚姻のあり方について定めた24条は、家族制度について「直接的にはこれをいけないとも言わないし、よろしいとも言わない」というのが草案を提案した帝国政府の態度だ。(昭21.9.18貴族院金森徳次郎国務大臣答弁)


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家族制度は法律上の根拠を失うとしても、各家庭が今後も家族慣習として運用したり、あるいは全く無視して現代的な男女平等の家族運営をしたりすることは各家庭に委ねられることであって、そこに国家としては首を突っ込まないし、誰しも他の家族のやり方に口を出すのは慎むべきだという家庭不介入の効果を与えている。

24条は法令レベルでは男女対等を保障するが、慣習、家族文化については「ウチはウチ、ヨソはヨソ」を是とする条文として捉えられるだろう。

これは信教の自由における政教分離の原則のようなもので、「特定の家族形態に対する援助・助長・促進又は圧迫・干渉をしてはならない」というような考え方が馴染む。

 

本来、現代の立憲民主主義では、表現の自由を保障することによって市民が自己の意見を政治過程に乗せて、自己統治を実現するということを重要視している。そのため、自分と異なる意見について反対意見を提出することも妨げられない。議論を深めればより正しい方の意見が必ず勝ち残るという思想の自由市場という考え方が当てはまる。「議論することは良いことだ」という建前がある。

ところが、家族の問題については、この24条があることによって、相手と自分の間に意見の対立があるとしても、わざわざ反対意見を提出するような無粋な真似をしてはいけないということになる。「議論すること自体が悪」とされる。

 

「男が稼ぎ、女が家を守る」という態様の家族運営は旧来の家族制度の性質が残っているとも評価されるが、そのような夫婦のあり方は地方ではまだまだ当たり前、僕らの親の代ではそれが当たり前という現状だ。しかしその状態を「不適切」として一つ一つの夫婦間に割り込んでいって「旦那さん、あなた時代遅れですよ!」ということはできない。せいぜい相談を受けた時に「旦那さんと話し合ってみたら…?」と促すぐらいが関の山だ。

 

現代社会では会社・法人も人権享有主体として認められる以上、ファミリーマートが「お母さん食堂」と銘打って商品展開することも表現の自由であり、そのネーミングに無意識レベルで「料理は母親がするもの」という観念が存在しているとしても、そこに不法性も不適切性もない。
それに対して僕達は、それを受け入れられないとしても「ファミリーマートさんはそういう考え方なんですね」と自分の中でケリをつけるところまでしか、24条は認めていないといえる。
署名活動はそれを超える行為だから、反対派が敏感に激しく反応したということだろうと思う。

日本国憲法下では、政治が解決せねばならない社会問題でも、24条を根拠に「それは根本的には家族の問題に起因することだ」と矮小化してしまえば、国はその問題を無視できる。
日本国憲法は、制定当時は世界的にも先進的な憲法だと謳われたが、いくつかの条文は制定意図まで探ってみると、上手に国が負うべき義務・責任を回避するように作られている。
この憲法が73年運用されてきた結果が、今の社会分断を引き起こしているんだろう。

 

では、今回の署名活動は、日本国憲法の保守的な側面を最大限に加味すれば、違法とまではいかないが、不適切であるとは評価されるだろう。

ただし、これを不適切だと言われれば、自己の意見を社会に反映し、より住みやすい社会を作ることは困難であり、家族以外の問題であれば正当な方法であるということと整合性も図らなければならない。

そうすると、今回の署名活動は表現の自由として保障されるものではなく、自然権思想そのものから導かれる抵抗権の行使の一種であると評価すべきではないだろうか。女性の現代社会に対する叛乱ということであれば、それを憲法内の規範で「悪だ」「不適切だ」と攻撃することは意味をなさない。

このような叛乱が、今後の日本社会を変えていくことに繋がれば良いと思う。