テンポラリー

そのときに思いついたことの備忘録。租税について考えることが多い

弱者ー惹者ーじゃくしゃ

 

浄土真宗の祖親鸞聖人の語録『歎異抄』の末に、次のような言葉がある。
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」

現代訳をネットから引っ張ってくると、「阿弥陀如来が五劫という長い時間をかけて思案を尽くして建てられたお誓いをよくよく考えてみると、つくづくそれはこのわたし(親鸞)ただ一人に向けての救いの御心であった」ということのようだ。
阿弥陀仏の教えは万人に向けられたものであると考えるのがふつうで、それを自分ひとりだけに向けられたものだと捉えたというのは、いくら親鸞が高僧侶といえども甚だおこがましい発言にも思える。

親鸞の真意を探るなら、その答えは新約聖書のなかにあるように思える。

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新約聖書マタイによる福音書第25章(34-40)
-そこで、王(イエス)は右側にいる人たちに言う。
『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

すると、正しい人たちが王(イエス)に答える。
『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』

そこで、王(イエス)は答える。
『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

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この最後の言葉は、イエスが弱き者たちのなかに自身を重ね合わせ、その人の苦痛を自分の問題として立ち向かう意識があるからこそ、放たれた言葉だ。
親鸞も、救われなければならぬ者たちに自分を重ね合わせるからこそ、阿弥陀仏の教えは自分に向けられ、自分の眼前にいるすべての人々に向けられているということを表したかったのではないかと思う。

宗教の違いを問わず、程度の差はあれ、どのような人間であってもこのように弱い他人に自分を重ね合わせて、その困難に立ち向かおうとする本能が眠っている。

病者に向かう医者。
または法や社会のバリアに向かう政治家や法曹。
または老者に向かう介護者。
または子に向かう親。
私に向かうあなた。
あなたに向かう私。

このような、社会性という人間の生物的特徴との関係でみれば、「じゃくしゃ」という言葉には「弱者」ではなく、「惹者」という字を充てる方が適当ではなかろうか。
人間は弱者に惹きつけられ、弱者の中に困難や課題を見出し、まるで自分のことのように立ち向かおうとする。
惹者のいない世界は西方極楽浄土だが、惹者を介して魂を喚起するこの世界は。
なるほど、苦海浄土というのだろう。