テンポラリー

そのときに思いついたことの備忘録。租税について考えることが多い

いじりといじめ

「いじり問題」について考えたい。
身近にいたイジられキャラに想いを馳せながら。

いじり/いじられの関係というのはゆくゆくは(早めに)人類社会から根絶されるべきだと思う。

私見だが、いじめといじりは下記↓のように区別できるのではなかろうか。


【いじめ(狭義)】
★定義:多数対一または一対一の関係において、本人らが何ら負担を負うことなく相手方に特定の「行為」を強要することで、相手方を自身の領域から積極的に排除するか服従させようとする行為。
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☆補足:強要した行為によりいかなる結果が生じたとしても、排除・服従の目的が達せられれば良い。


【いじめ(広義)】
★定義:狭義のいじめに加えて、相手方への暴行や傷害行為によって、相手方を自身の領域から積極的に排除するか服従させようとする行為。


【いじり】
★定義:それぞれに充分な信頼関係のない複数当事者間において、本人らが積極的な排除意思をもたないうちに相手方に特定の「結果の発生」を強要する行為。
★定義:「それぞれに充分な信頼関係のない」とは、本人らと相手方の間だけでなく、本人らの間にも信頼関係に差があることをいう。(理由:本人らの間には充分な信頼関係があるならば、本人らが相手方に強要する行為は、場を盛り上げるというような結果の発生を望むものというより、本人らのルールに従うという行為を要求するものだから、もはや狭義のいじめと評価できる。なお、場を盛り上げることは本人らの間で行われる信頼のあるいじりで実現できる。)
★定義:「積極的な排除意思をもたない」とは、①信頼関係構築意思をもっている、②自身の領域から排除する意図はないものの、これ以上の信頼関係構築も望んでいない(消極的排除意思)、の2つ。
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☆補足:強要した結果が実現されれば①信頼関係構築意思が持続し、実現されなければ②消極的排除意思に移行する。
☆補足:えてして、いじりでは信頼関係は構築されない。ゆえに本人らの内心は時間の経過によっても①から②へと移行していく。


【信頼のあるいじり】
★定義:本人らと相手方の間に充分な信頼関係があり、本人らが相手方に特定の行為または結果の発生を促す行為。
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☆補足:充分な信頼関係のもとであれば、消極的排除意思は発生しないため、結果が実現するに越したことはないが必ずしも結果の発生を求めるものではない。
☆補足:信頼のあるいじりはほとんど社会問題にならない。

 

・・・不十分な定義かもしれないが、このように文字にしてみると、いじめといじりは根本的に違うもので、いじりの延長線上にいじめがあるわけではないということが分かる。最後の最後までいじりの場合もあるし、いじりからいじめへ転化する場合もある、くらいに考えておいたほうがいいだろう。

場合によってはいじめに転化したほうが、被害を認定しやすいし、周りに相談しやすい、周りも介入しやすい、とも言えるかもしれない。
最後までいじり行為に終始する場合は、本人が「愛がある」とか言って加害の意思がないから、いじられる側は今自分がどういう立場なのかを自認しにくいし、周りにも相談しにくい。相談を受けた方も「それで周りの空気が温まるならいいんじゃないの」とか、安易な助言で終わってしまう可能性が高い。そして結果を要求される点でハードルが高く、いじめよりもはるかにたちが悪い。

ただ、上記のようにいじめといじりを区別したとしても、実際には強要されている行為とその結果は表裏一体のものであるし、いじめられる/いじられる相手方は本人らの内心を常に知ることが出来るわけではない。知ることが出来ない場合、強要されているものをどのように判別するかは、相手方がどのような効果を期待して強要に応じるかで決すれば良い。つまり本人らの内心を相手方がどのように認識したかということに尽きる。
「逆らったら殴られる、今後無視される」というような理由で応じるのであれば、いじめられていると認識しているし、「笑いを求められてる」とか「嫌われたくない」といった理由で応じるのであればいじられていると認識している。

そんなこんなで、教育者や大人、大学生たちはいじりをいじめの前段階と位置づけていじめ対策の中で処理するのではなく、全く別筋のスキームでいじり対策を考えないといけないと思う。
とはいっても、いじりの修正はかなり難しい。いじりは信頼関係のない中でなんとか互いに接点をもとうとする努力の表れではある。根本的には悪気はないのだ。しかも一時的に同じ空間、体験を共有することには成功してしまうから、双方ともそのことに喜びを感じ、いじりに依存してしまってそれ以外の方法での接点の持ち方を忘れてしまうようだ。
ほんとうの信頼関係が何によって生まれるかといえば、やはり互いに相手がどんな考え方をする人間なのかということを知ることによってしかなし得ない。しかし価値観を共有したいと思っていても、言うほど我々は自分のものの考え方を日常的に赤の他人に垂れ流すようなことはしない。それを解決するためには、どんな異端的な、公序良俗を害する発言でも絶対に否定せずマジレスする会のようなものを定期的に開催するしかないかもしれない。そこまでいかなくとも、他人と違う発言をすることを推奨しなければならない。
いじり対策のスキームはまたいつかきちんと検討したいと思う。

では、本人らと相手方でいじめといじりの認識が異なっている場合、どちらのスキームで対応するべきだろうか。
基本的に、誤想している相手方の理解を改めることからはじめて、本人らの主観に合わせた対策をすべきと考えられる。

【1】本人らはいじめている認識で、相手方はいじられているとの認識だった場合
本人らの相手方へ害悪を及ぼす意思は強く、また相手方は「結果の発生を求められている」と自らハードルを高く設定している。まず相手方に、本人らはどんな結果であっても構わず、相手方を貶めることが第一義的であることを説く。つまり「あなたはいじめられている」と宣告する。

【2】本人らはいじっている認識で、相手方はいじめられているとの認識だった場合
本人ら、相手方を同席させた上で、本人らには相手方を排除したり害を加える意思が無いことを代弁し、本人らに確認させる。そしていじりは虚無的な信頼関係しか構築しないのだから、本人らにいじり行為を中止させる。また、「本人らも相手方も仲良くする方法がわからないだけだ」ということを分析的に説明し、対話させる。

ざっとこんなところだろうか。