もしも、都知事選に立候補するなら
都と、その他の道府県では、徴税権の強さ(範囲)が全くちがう。
固定資産税とか法人の住民税ってのは各市町村が徴収権をもってるから道府県はアンタッチャブルだけど、都は23区から徴収できる。そして、45%は都が保有して、残り55%を23区で分け合うという、都区財政調整制度を持っている。だいたい都に7800億、23区に9600億くらい。
それだけ都には金が集まるから資本と結びついて大規模開発(とちょっとした都独自の福祉制度)をするようになる。
すると、都市が発展するけれど、その分、都区内の固定資産税はその環境の良さに比例して高くなる。都市としてのブランドは上がる一方で、住民が支払う税金は高くなるし、家賃もたかくなるから住みにくくなる。
それでも、現状では都市が雇用を生むために、全国から人が集まり、東京都一極集中状態を形成する。区内の多くの一人暮らし用の賃貸不動産の居住面積が、国の定める最低基準の25㎡以下であっても、そこが6万、7万の家賃だったとしても、それでも住んでみたい!!と思わせるような魅力を都は持つに至った。
しかし、これからはそうはいかない。これだけ正規雇用がくずれ、そして正規雇用であっても賃金が下がっていれば、魅力ある東京に住みたくても住めなくなるだろう。低賃金でも働ける年齢ならいい。でも、僕が65歳になる約35年後、働けなくなった時、今の賃金水準で退職までに安定感のある貯金ができる人がどれくらいいるだろうか。そして、不安感満載の年金でどれだけのひとが東京に残って暮らせるだろうか。
あと40年もすればロボット技術が更に進んで、単純な雇用は奪われる。働くことが贅沢な時代に突入する。
僕らの世代の老後は…65歳になって、しばらくは僅かな蓄えで10年くらいは東京にしがみついて、でも最終的にはその税の重さに地方に移住しなければいけなくなる。75歳で、この間の政策でボロボロにされた地方に移住を余儀なくさせられる。
老いたら都市のほうが快適だのに、荒廃した地方で平穏に最期を迎えられる元シティボーイ&ガールがどれだけいるだろうか。
しかも、そうすると固定資産税収入が見込めなくなるので、こんどは住民税(法人分)の徴収を強化することになる。東京23区内の事業者も逃げ出すだろう。かくて、東京23区は空虚な、何のために高度に発達してるのかまったく意味の分からない都市に成り果てる可能性がある。
だから、都区制度を廃止して、他の自治体と同じ租税システムにするのが良いと僕はおもう。もちろん、東京市内の23区にも格差があるので、そこは財政調整が必要かと思うけど、55%じゃなくて100%配分すればいい。それによって住民福祉のための歳出に財源を割くようにして、オーバーヒートした都市開発を和らげる。すると固定資産税は下がって若干暮らしやすくなる、老後も住み続けられる。一極集中もすこしは緩和されるはず。
そして社会資本(道路など)は国に譲る。そのほうが土建企業は契約が一括でやりやすいんじゃないのかな。
大阪都構想がおこったのも、東京があまりにも人とマネーを呼び込みすぎて、大阪という大きな街からも元気を奪っていたからだと思う。だからある意味、橋下市長の政策は、短期的に見ればただしい。一部の都市だけが発達しすぎてはいけない。
今東京に生きる若者は、本当に都区制度がいいのか、考えるべき時期に来ていると思う。
ただ、大変残念なことに、東京府構想を訴えようとすると選挙ポスターに「東京を魅力のない都市(まち)に!!」という標語を書かなければいけないことになる。これでは選挙に勝てないね。
逆に、全都道府県を都にしてしまえば全国平等だけれど、全国で税金が上がり地代が上がり…住民は国内のどこの町にも住む経済力がない。日本の住民は、日本にいながら難民か山賊になるしかない…なんてことがあるかもしれない。考え過ぎかな。
全体的に表現がオーバーだな。
メモ
自民党憲法草案「家族は互いに助け合い尊重すること。国民は公や社会の秩序を乱してはならない」 [無断転載禁止]©2ch.net [509143435]
http://hitomi.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1468348107/832
832 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ドコグロ MM3f-oo3f) 2016/07/13(水) 10:18:08.88 id:RMLiv5SwM
おれ、3人くらい自腹で生活困窮者支援したことあるけど大変だよ
まず貯蓄が少ない状態で、疾病や不測の事態で手取りの2倍程度の支出が発生することで生活困窮に陥るケースが多い(50万円くらいでつまづく)
それから回復し、自立するまでに金は110~140万、期間は5年ほどかかる
金がこれより少なかったり、貸した金を早くとりかえそうとしたら人間関係こわれて失敗する
200万くらいポンと貸せて、10年くらい返ってこなくても許せる度量がないとムリ
メモ(シュメルダース)
シュメルダースは、国家の権力とは財政高権と貨幣高権であると主張した。
ここでいう財政高権とは、徴税権のことであるという説明を、井手英策教授が「日本財政転換の指針」(岩波新書)のなかでしてくれていた。
憲法30条解説(樋口陽一)
フェイスブックへの投稿をこちらの方でも。
第三〇条国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。
本条は、議会に提出された政府の原案になかったものを、衆議院における審議で加えられたものである。本条を新たに挿入した理由について、衆議院委員会における芦田均委員長は、「此の条項は改正案の他の条項と対照して既に明白なことであるから、之を明記する必要はないとの論もありましたけれども、本委員会は、斯かる規定が国の基本的法制として最小限度に必要なりと認めまして、新たに挿入した次第であります」(清水・審議録②721-2頁)と説明している。
納税の義務は、1789年のフランス人権宣言13条で、「武力を維持し、行政の経費にあてるために、共同の租税は不可欠である。それはすべての市民の間で、その能力に応じて平等に配分されなけれぽならない」と規定されているように、平等かつ公正な課税の原則と結びついてできたものである。また、納税の義務は、歴史的に租税法律主義の原則の成立と楯の半面をなしている(註解・五七六頁)。
一 納税義務の意味
(イ)本条は、国民の納税義務の宣言としての意味をもっているが、国民の納税義務は、国家を構成する国民の当然の義務であるから、憲法の明文規定によってはじめて生ずるものではない(東京高判昭28・1・26判タ28号61頁参照)。
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さて、国家を構成するというだけで、納税というものは当然の義務であるということはどの程度自明なのか。僕はこのことがいま大変疑わしい。国家権力は乱用されぬよう分権する(三権分立)ということが前提となっている近代国家で、国民の義務として設定し、国家の側でいう徴税権というのは、制度としてどのように制限されているのか。このことを明確に解説したテキストにいまだ出くわしたことがない。
租税裁判所
憲法30条「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。」という条文。日本国憲法審議録を見ると、この条文がくわえられた経緯は、国民が税金を納めるのは当然である、あたらしい憲法案には国の責務がいろいろとかかれていてアンバランスだから、この際納税について記載をし、全体としてのバランスをとろう、ということらしい。
この30条の文言から読み取れるのは、法律で決まったとおりに納税をする義務が国民に課せられたということで、国会での提案者も単にこの事しか意図していないと思う。そうだけれど、国家・租税の成り立ちを考えると、この条文にさらなる意義を見出すことができそうだ。
1つめは、上記の裏返しになるけど、法律で定めなければ徴税できないということ。そして2つめは、(僕だけの考えだが、)30条というのは税というかたちでしか国民の義務を規定していない、つまり税金以外の方法で国の施策や、国家施策への貢献は求められないということ。この2つめの意味が、これからどんどん重要性を増してくるように僕は思う。
自民党の憲法草案などをみると、新しい24条で、「家族は助け合わなければならない」という条文が追加されている。社会保障的な財政出動を、家族の扶養義務では対応しきれないときに限定的に行われるものとしようとしているのは明らか。しかも日本は国債残高がべらぼうに高いために、社会保障のあり方をそんなふうに変えてしまうことは国家財政担当者の目には非常に魅力的にみえるだろう。しかし、国民の側ではこれがどんなに大変なことか。
こんなことにならないように、憲法30条から扶養義務は違憲であるというようなことを指摘できないかと、いつもおもう。そして、もっといえば、租税の他にそのような非金銭的負担を国民に課していることを前提とする租税精度の全体を棄却して、個人個人が租税を拒否する権利を設定できないかと。
たしかに、私達が民主的ルールに基づいて選出した議会には予算議決権や租税拒否権があるのだけど、それとは別に、個人がもつ当然の権利として、こういった租税叛乱権みたいなものを発見できたらいい。選挙のたびに1票の格差は違憲状態という判断がくだされるほどにねじ曲がった選挙制度では、国民が参政権を正しく行使することはできないのだから、個別的叛乱として租税を拒否するということができてもいいとおもう。まだ確信は持てないけど、きっとそれはありうる権利だとおもう。
これは国民にとっては魅力的だけど、為政者の方は困るし、さらには様々な主体の共同たる国家の崩壊を招いてしまうかもしれない。財源がなければなにもできない。国民の側の言い値で租税がすべて拒否されるようでは、国の滅亡の日も近いということになる。
そうならないように、どういったケースで租税が拒否できるのかということを判定する機会が必要になる。租税裁判所、と仮によぼう。「立法、行政、司法のそれぞれの行う施策や判断が、租税に応じるに足りるものになっていない」と思う個人が租税裁判所に提訴する。裁判所は政策等が憲法に合致しているのかどうかを判断し、また個人の置かれている事情をも勘案し、当人が租税に叛乱する権利を行使するに値するか否か、またどのような叛乱を認めるかを裁判する。
この、租税叛乱権と租税裁判所を正当化する仮説も考えてみた。
(1)租税に応じることも政治参加の一形態であると考えられるなら、租税叛乱権は参政権的な側面を持つことになる。普通の選挙権は行使しないという消極的意思表示を行うことが出来る一方で、租税という形の政治参加の場面では租税に応じないという消極的意思表示は制度不全である、という点。
ブログ引っ越し
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2015/5/27