テンポラリー

そのときに思いついたことの備忘録。租税について考えることが多い

政教分離と天皇教

政教分離とはなかなかむずかしい話だ。

日本国憲法でも20条に信教の自由が掲げられて、政教分離をすることになってはいる。

 

フランス革命がおこった時、カトリック教会はフランスの統治から一旦は締め出された(国家の宗教から国民の宗教という位置づけに変化した)ものの、紆余曲折あってその後1世紀弱の間も国家予算から教会の維持に当てられる資金が支払われていた(コンコルダ制度)。革命を起こし、自由を獲得した国でさえ紆余曲折を経ている。

 

日本は象徴天皇制を採っている。皇室典範は普通の法律と同じで民主的に改廃することが可能になっている点、天皇明治憲法の神聖にて侵すべからざる存在ではなくなった。

日本帝国では、国家神道というのはあくまで道徳のレベルであって宗教ではないからいいのだという言い方で国民に天皇崇拝を強要していたけれど、やっぱり宗教だとおもう。たしかに、神道自体は明確な教義を持たない、それゆえに大した道徳や法源を生み出さないゆえに、聖徳太子が大陸から仏教を輸入して、それによって統治をしてきた。でも、例えば外国の有名な「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」なんかは、スパゲッティ・モンスターがこの世を造ったということを信じるくらいで、そこから倫理とかが生まれてこないものの立派な宗教として扱われているわけで、そのことと比較して国家神道について考えると、人間を神として扱っているし、超自然的なものを崇めている、そして神を守るために道徳が規定されている…これを教義と言わないでおくのは無理があるように感じる。

さすれば、天皇は国家的機関ではないしなんの権力ももたないものの、やはり宗教的な存在であることは伺える。憲法が変わったからと言って宗教的ではなくなったというのは難しい。天皇天皇教の神様だ。それが憲法第1条に国民の象徴として決められているというのは、フランス憲法に「ローマ法王はフランス国民を表す」とか書かれているのと同じくらい不自然な感じがする。

 

そして現実的には天皇が国民を代表している面もあって、天皇の鶴の一声は国民世論に大きな影響を与える。今上天皇生前退位のお気持ち表明したのを否定する国民は少なかったと思う。「まぁ本人が言うんなら」とかそういう軽い気持ちかもしれないけど、実際にはそれによって法律の改正が必要だったり、特別措置法が作られたりしたのだから、権力が動くことになった。国民(天皇教徒)は天皇(神)のお言葉を心待ちにしている部分が大いにある。だから、どんな政治的立場でも天皇のお言葉とか、宮内庁付き記者の書いた記事なんかはついつい読んで、その天皇の意図を汲み取ろうとしてしまう。主権は自分たちにあると謳いながら、精神的には天皇にかなり依存している。

 

現状から考えると憲法3大原則で挙げられる国民主権というのは現状を反映していなくて、主権は国民と天皇に二元的に由来するとか、天皇から国民に主権が授権されたとか、そういう感じの言葉で表したほうが良いように思える。

 

日本は天皇教を国教とする宗教国家。今上陛下の人柄は好きだけどね。

でも税金で皇族費とか内廷費とかを出さなくても良いんじゃないかと思う。憲法からは除外して、税金じゃなくて、信仰熱い人がお布施をして、それで天皇という存在自体はずっと維持していけばいい。そうすれば、女性宮家がどうとか女系天皇がどうとか、そういうのは単なる宗教内部の統治問題だ。カトリックがどんな基準でローマ法王を選ぼうが勝手、創価学会幸福の科学がどのような基準で代表者を選ぼうが勝手というのが宗教に対する本来あるべき国家・国民の態度であって、今の状況、立法権を発動しなければ皇室典範を変えられないという方がよっぽど宗教に対する不当な制限に見えてくる。

徴税権行使義務の根拠(前回のつづき)

前回のつづき。

 

国が徴税権を持つとして、権利は行使することもしないことも許されるとするのは不都合だから、この恣意性を制限するために納税の権利を認めるべきだと思うのだが、これに対して「租税法律主義、租税平等原則によって、恣意性は排除され、徴税権は必ず行使しなければならないことになるから不都合は生じず、納税の権利を認める必要がない」と反論されそうだ。


法の下の平等に基づく租税平等原則では全ての任意性を排除できない

租税平等原則は憲法14条の法の下の平等に由来するものだと言われる。しかし、単純に、法の下の平等の徹底するがために徴税権を必ず行使しなければならないとするのは早計だ。

まず、租税を定める法律の内容そのものが平等なものであるかどうかという、法令違憲を考える段階での検討がされる。
次に、合憲性を伴った租税法を運用し、個別に適用することが平等であるかという適用違憲の検討が別途必要になってこよう。徴税権の行使不行使の正当性を考えることは、この段階での問題である。

憲法14条1項は、「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と定めているわけだが、差別しても良い例外をゆるすかどうかにはその要素によって若干の濃淡がある。人種や性別による差別はそのように差別しなければむしろ弱者を保護できず、他に手段もないような場合に限って許されるものであって、原則的にはほとんど絶対に許されない(厳格審査基準)が、社会的身分による差別は著しく不合理でなければ許される(厳格な合理性の基準)…こんな具合だ。

このような議論を徴税権を行使しないことについて考えると次のようになる。


【例1】同じ所得を有する男女について、性別の違いによって異なる税額を法律上設定することは、そうしなければ女性の地位を確保することが他の手段によっても不可能と考えられなければ、不当な差別であり許されない。また、性別の区別なく所得という基準のみで税を設定しているにもかかわらず、男であったから徴収し、女であったから徴収しなかった場合は性別によって差別しているので徴税権を行使しなかったことは平等主義的運用を逸脱する。

これは簡単だ。法令そのもの、適用段階のどちらについても例外を厳しく制限していることが分かるだろう。問題は身分による差別であるが、あえて徴税しないことが許される極めて特殊なケースであることを自覚の上、例を出してみる。


【例2】漁師が壇ノ浦で漁をしていたところ、平家物語の中で海に沈んだとされる草薙の剣を発見し、所有権を取得した。本物であることの鑑定を受け1000億円の値がついたが、漁師はその剣の国家的な位置づけを重視し、皇室に無償で献上することを表明し手続きをしていた。ところが、その協議の最中に不慮の事故で死亡してしまい、草薙の剣の所有権は息子に相続された。また息子も無償献上することを希望している。ところで、三種の神器皇室経済法7条における皇位に伴う由緒ある物であり、相続税法12条によって天皇から皇太子に相続するときは相続非課税となる、それは三種の神器がもはや値がつけられないか、値を付けたとしても天文学的な金額になるため、相続税の対象とすると皇室は破産してしまうためである。そこで、本件草薙の剣については1000年以上海に沈んでいた間、皇位とともに継承されてきた事実はないし、皇族ではない者の間での相続で皇室経済法の適用は受けないはずであるが、非課税の取扱いとし、徴税しなかった。


こんな事例は現実にはほとんど起こり得ないが、徴税権を行使しなかったことについて異議を唱える国民はいないだろう。無償で譲渡することがほとんど確定しているのに1000億円に対して課税されれば、逆に不合理である。
このように、相続税法の規定には逸脱するものの、むしろ徴税権を行使しないほうが天皇、国民という社会的地位の違いによらず平等であるということも考えられないわけではない。
あるいは、議論が分かれるだろうがこういう例もありうるかもしれない。

【例3】生活保護水準を下回る所得、資産しか有しないが、生活保護を申請していない者に対して、国民健康保険税を徴収しなかった。

生活保護受給者は国民健康保険の対象ではなくなる(医療は生活保護の中の医療扶助によって行われる)ので保険料を納めない。生活保護を申請していない者は国民健康保険の対象ではある。しかし、生活保護で保障される健康で文化的な最低限度の生活を維持するに足りない経済事情に置かれているにもかかわらず、例外を認めず国民健康保険税を必ず徴収することが、真に平等であるか。

 

上記のように徴税権を行使しないことが半ば温情とか一般人の感覚としては馴染むものだったとしても、ここで僕が問題にしている「憲法14条が租税平等原則(そして徴税権行使義務)の根拠になりうるか」ということになると、14条からは、「いかなる事情があっても徴税権を必ず行使しなければならない」とすることは出来ない。


■納税の権利が認められず、平等原則の例外に該当し義務を履行出来ない場合の議論(抵抗権)

と、すると、何かしらの合理的な理由をもって観光促進税について徴税権を行使しないことが許され得る場合があることも否定できず、その結果として出国できない場合がある。
しかも裁判でもその違法性がみとめられなかった場合には、いよいよ抵抗権を行使するしかないということになる。

憲法秩序が破壊された場合に国民が実力をもってその回復を測る権利を意味するいわゆる抵抗権の規定は憲法の明文には存しないが、憲法12条が基本的人権を不断の努力によって保持する責務を国民に課しているのはその趣旨の現れであると解せないでもない。

憲法12条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」と規定している。

もし徴税権の不行使が容認され、納税の権利が憲法上保障されてないとするなら、憲法12条を根拠に抵抗権を行使することはできない。不断の努力で保持しなければならないものはあくまで権利であって義務ではないし、12条は義務についても保持義務があるとする趣旨と解するか、あるいは12条の規定にかかわらず抵抗権を検討するとしても、義務を守るために抵抗するというのも不自然極まりない。

また、出国の自由という権利を保持することの延長として納税の義務を履行する機会を要求するという考え方もできなくはないが、「税金なんかとらずに自由に出国させろ」と、「出国するために税金をちゃんと受け取れ」では随分意味合いが変わってくるし、後者の要求ははっきりいって出国の自由の一部を自ら放棄していて、勝負する前から負けている。そして観光促進税以外の税における徴税権の不行使についてはこのように別の権利から「税金をちゃんと受け取れ」という要求を導き出すことが出来ない。

 

■解決法と帰結

で、あれば、私たちは国家を形成した段階で納税の権利というものをもっていると考えるのが自然だし、抵抗権では義務を確保することが出来ない以上そうしなければいけない必要性がある。我が国の憲法上は、30条「納税の義務」にその趣旨が含まれていると解釈すべきだ。そして、租税平等原則の根拠を納税の権利に求めることによって、国家には徴税権の行使を絶対的義務と位置づけ、その恣意性を一切排除する(上記の事例による例外を一切認めない)。その上で別の権利や平等の観点から問題があると認められるときには納税義務者の側から異議を唱えるべしという関係が望ましい。
徴税権を自分から行使しなかったのではなく、納税を拒否された結果として徴税できなかったという形であれば、必ずしも国家自らが平等原則を破ったとは批判されないという算段だ。

さて、これまで見てきたように、徴税権の行使義務の根拠を「A.法の下の平等に求める立場」と「B.納税の権利に求める立場」がある。観光促進税をそれぞれの立場を運用するにあたってどのような違いが出るか、一つ例を出してみよう。

 

【例4】犯罪の嫌疑をかけられている容疑者が国外逃亡を企てた場合、課税当局が犯罪容疑者であることを知りつつ観光促進税を徴収したが、出国審査当局も容疑者であることを知っていたため、出国は認められなかった。

A.(法の下の平等の立場)たとえ容疑者という身分であっても出国の自由があると評価しているために徴税権を行使している一方、出国審査においては容疑者であることを理由に出国を認められていない。これは国家の意思が矛盾しており、徴税権を行使したことの合憲性に疑問が残る。つまり観光促進税の返金が必要か否かという問題がある。

B.(納税の権利の立場)たとえ容疑者であっても納税行為そのものを課税当局自ら制限することは許されないから、徴税しなければならない。出国審査の結果、出国できなかったとしても徴税したことは納税の権利を保障した結果にすぎないのであって合憲的である。ゆえに観光促進税の返金は不要である。

観光促進税に見る納税の権利の必要性


出国時1000円の観光促進税 再来年4月で調整

来年度の税制改正を議論している自民党税制調査会は、日本を出国する際に1人当たり1000円を徴収する「観光促進税」について、2019年4月から徴収を始める方向で調整を進めることになりました。
政府・自民党は、来年度の税制改正で、観光分野の政策に充てる財源を確保するため、日本を出国する際に1人当たり1000円を徴収する「観光促進税」を導入する方針です。

これについて、30日に開かれた自民党税制調査会の会合で、国土交通省が「観光促進税」の徴収を2019年4月から始めたいという考えを示したのに対し、出席者から異論は出されず、再来年4月から導入する方向で調整を進めることになりました。
また、およそ5兆円の地方消費税都道府県への配分についても意見が交わされ、「東京などの大都市に偏った配分になっている」などと早急な見直しを求める意見が相次ぐ一方、都市部選出の議員から「東京都などの理解を得るべきだ」といった慎重な対応を求める意見も出され、引き続き調整することになりました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171130/k10011241221000.html?utm_int=news-new_contents_list-items_008

 

 

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いよいよ、納税は義務である前に権利であるということを議論しなければいけないと思う。

憲法22条により、居住移転の自由は認められている現状、出国するにあたって経済的な負担が必要になる。

 

これについて、憲法30条により国民には納税の義務があるから、その義務を履行しないものは当然に出国の自由という権利を行使できないのか。本条は税を徴収する側(国家)の権利義務関係についてはなにも規定していない。(ただ、84条にて租税法律主義を規定するのみだ。)

そうだとすると、仮に出国を許したくないときに、観光促進税を支払うことを国家が拒否することができるとも解釈できる。この場合、個人の出国の希望に関わらず出国することは不可能であり、移転の自由は制限されうる。

 

しかし、以下のような不都合が発生する。

おそらく、観光出国税の条文は「出国を希望するものは、出国のときに1000円を納めなければならない」というような趣旨の文言になるはずだが、納税の機会が、国家の納税拒否によって奪われるということになると、納税の義務があるのにその義務を果たすことができないということになり、妥当でない。

 

ここから、納税は義務である前に権利であることが窺い知れる(同時に国家の側に納税を拒否しない義務)。ただし、観光促進税として法定された後、出国の際に当該税を納めないものはやはり出国できない。

 

しかしそれでいいのか。いかに租税が強い国家権力の発動だとしても、法定すれば(経済的自由権であるが)自由権を容易く制限できるのか。

 

東日本大震災復興税は(その使途に疑問が残ることは別として、)特定の地域の復興促進という社会的な目的をもって設定されたが、現代日本人にとって未曾有の大災害であったし、所得税に上乗せして課税されたとしても、すべての財産が没収されるわけではなく、納税しなかったとしても税の追徴と犯罪になるだけだった(だけ、というのも語弊はあるが…)。

しかし観光促進税は観光の活性化による経済の促進という目的をもっていて、財産権の侵害の程度こそ微小だが、納税しないことによって出国の自由はゼロになってしまう。

 

 

 納税の権利を自分から放棄したのだからそれによって被る不利益は仕方がないか?

 

この問題を考えるには、納税の権利に具体的にどのような権利性があるのかを検討する必要があるだろう。

人は(歴史的に見れば兵役の免除や選挙権や市民権の獲得など)一定の権利を獲得することを目的として、言い換えれば個人として尊重されることを願って金銭を国家に支払う意思をもつ。その期待の実現を保障するために権利として認めるものと解するべきだろう。

通常、我が国の見解では、租税は「反対給付なく個人から国家へ金銭の移転する権力発動の効果」との見方が強いが、この解釈は租税の歴史からすれば誤っている可能性がある。人は間違いなく反対給付を期待するからこそ納税の義務に服している。そして個別的でなくとも財政を通じて、社会循環して得られる何らかの公的給付が租税の合憲性を裏付けるものなのだ。

つまり租税で得た予算によって実現される社会的利益に対する期待がなければ、その合憲性の疑いが高まり人々は納税に抵抗する。それでも30条によって納税義務を履行させようとするときには、国家と国民の権力の均衡を保つために相対的に納税の権利が拡張されうる。つまり、租税によって得た金銭が財政を通じて社会利益を生み出さない又は社会利益は発生しているがこれを納税者が受けることを期待できない場合には納税しないことも許されるという権利に転じる、とすることはできないか。

そして、租税の合憲性は、租税により制限される権利の種類や程度が制限されないことによる利益と納税者個人レベルでの社会的利益享受(反対給付)の期待可能性を比較して考量するべきだろう。

このように解したとき、歳出使途を制限しない一般税については財政の効果によって金銭の同一性が切断され、そのような比較衡量は意味をなさないし、現実問題として反対給付の可能性要素の程度を認定、確定できない。しかし一方で目的税は、歳入と歳出で金額の同一性が保持されるので、その使途の効果を一定程度認定することはできる。

 

 観光促進税はその名前の通り目的税であろうから以上の議論が当てはまり、納税をしないのは権利の放棄ではなく、拡張権利の行使に当たる。

そして拡張権利の行使が正当であるか否かの判断にあたっては「財産権及び出国の自由」と「当該税を通じた観光の活性化の利益」について考量する。(ここで、後者の要素に「出国の自由の制限の解除」という利益が含まれないのは、その利益は通常の納税の権利によって得られる反対給付の範疇にあり、拡張権利を認めるか否かを議論することからは排除されるためだ。)

さて、税の政策運用の利益享受可能性に比して、たかが1000円の出国の自由制限を軽いと見るか重いと見るか…。

 

あと、何と何を考量するかはもうすこし練らないとダメだな

 

税の喜びおじさん安倍

■税の喜びおじさん安倍

衆議院解散を表明した安倍首相が、テレビに出まくって「税こそ民主主義」とのたまったそうだ。
ざっくり言えば集められた税金は社会保障その他もろもろの国民の支え合い、連帯のために使われるものだから租税負担に応えてほしいということだろう。

そもそも、国が強制的に国民のふところに手を突っ込んで金を巻き上げることができるのはなぜなのか、根拠となる考え方に争いがある。

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・最初に現れたのが租税利益説。絶対王権を否定し、自由(財産権)を獲得するために、徴収されたものは、必ず国民に個別的に利益が戻ってくるような形でなければならないという個人主義を徹底した考え方。ただ、この説では「税金を納めなければ、それに見合った行政サービス等を受けられない」、「サービスを受ける必要性がないものは納税する必要がない」という解釈が可能で、当時の深刻な貧富の差を是正するサービスを設定するための根拠にならなかった。

・そこで次に主張されたのが租税義務説。格差が広がり東側で社会主義が擡頭しはじめたとき、その思想の西欧への伝播を食い止めるために労働者の権利といった社会権は一定的に資本主義にも適合しうるとしてドイツのワイマール憲法などに盛り込まれた。このように国家が人間が生きるための最低条件を提供する存在であれば、国民は当然に納税の義務を負うという考え方ができる。
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安倍首相の発言は後者の租税義務説を重視したものとみられる。しかし、義務説が必ずしも民主主義に直結するわけではない。租税は法律に則って運用されるものだが、「悪法も法なり」という言葉のように、その内容が不公平、不公正に議決されるものであれば民主主義は形式的なものでしかない。本当の意味で租税を民主主義的なものにするためには租税が(個人の人権を侵さないかどうかといった)内容や、成立までのプロセスの適正さを保ってなきゃいけないし、独立して司法部門が尊重されないといけない。

実際の税制はどうなっているだろうか。

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所得税は、高所得者は行政からの給付を欲さないといって、累進課税が弱められた(15段階→7段階)
法人税。道路や電波など、企業は個人より圧倒的に社会資本インフラを利用しているが、決算赤字であれば納税額はほとんどゼロにちかくなる。細かい節税のテクニックがたくさんある。しかし、公共財は使用量に従って納税額が変わるわけではないのでそのこと自体は批難できない。むしろ、法人は生命体ではないので生存にかかる行政からの給付を欲さず、租税はビジネスを阻害するものとして減税される傾向にあることに注目すべきだ。
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このように、我が国の租税観は根本的に利益説的な超個人主義にたったうえで、なお必要な支出のための財源を確保する必要がある。

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・消費税は、一つの財を購入するのに富めるものも貧しきものも同じ額を負担しなければならない。
・年金保険料は働いてなくても、一人あたりの保険料が発生する
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医療保険介護保険は保険料の納付額にかかわらず、受けられるサービスは一定である。しかし、下記のように保険料は増加している。

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国民健康保険料は、所得に応じた所得割保険料と基本料的な一人あたり保険料の混合体であるが、基本料の割合が増えており、低所得であっても支払わないといけない額が増加している。

・健康保険料(社会保険料)は基本部分は賃金(標準報酬月額)に応じた保険料設定だが、後期高齢者医療制度への支援金部分については健康保険組合の加入者一人あたりの基本支援金分と、報酬比例分の混合であった。しかし、この部分が近年、完全に報酬比例(全面総報酬割)になった。社会保険は労働者であって、国保加入者に比べれば高所得者なので、保険料はむしろ値上がりした。なお、健康保険料は介護保険への支援金制度もあり、こちらも2020年までに全面総報酬割が導入され、保険料は増加する見込み。

介護保険料は、全体の費用の半分は国は自治体が支出し、30%は他の社会保険制度からの支援金、残り20%は65歳以上の高齢者が給付を受けているか否かにかかわらず保険料を納付する。この割合は法令で定められており、高齢化社会で介護費用が増加する中で、必ず増加する。また、一人ひとりが支払うべき額は所得によって補整されるが、高所得者層に対する累進性があまりにも低い。「老人は金余り」などと言われることがあるが、そのターゲットからは十分な額を徴収しきれていない。
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たいへん細かったが、↑のような実態を見てみると、まず(1)行政サービスを欲さない個人や法人の納税責任を軽減し、(2)行政サービスを欲する通常の個人に対しては徹底的に義務を強調するという、二段階の構造になっていることがわかる。果たして現行の租税制度が民主主義的に公平公正といえるだろうか。
繰り返しになるけど、結局「税こそ民主主義」という言葉は、おおよそ個人の経済的事情では生命を維持することが困難な一般国民に対して、民主主義を口実に負担が重くても納税せよというお達しだろう。たとえ、租税が個人の生存権を脅かすとしても、だ。
納税の義務生存権の競合問題は、学問と学問の狭間に落ちてしまって、あまり議論のメインストリームになってきていない。これは僕がやるべきこと。

成人18歳、臨時国会提出へ

成人18歳、臨時国会提出へ  民法改正案、法相が検討

 上川陽子法相は4日の閣議後記者会見で、成人年齢を現行の20歳から18歳に引き下げる民法改正案について、今秋の臨時国会への提出を視野に検討していると明らかにした。
成立すれば、明治時代の民法制定以来続く大人の定義が変わる。改正案には、結婚できる年齢(婚姻適齢)を男女とも18歳以上に統一する規定も盛り込むとみられる。

 法務省は、今年の通常国会に改正案を提出する方針だったが、見送られていた。
会見で上川氏は「全力で取り組む。選挙権も18歳以上に引き下げられており、それに伴う義務と責任にどう対応していくべきか、トータルで考える必要がある」と述べた。

https://this.kiji.is/266046933024933372?c=39546741839462401


娘を大学にやっと入れたと思ったらすぐに振り袖のレンタル予約しないといけないのか。。。財布が大変だな
それに18歳を成人とすること自体は冷静に分析したいけど、選挙権でさえ義務と責任がどうこうって論じるのは違和感がある。
天賦人権論廃止したいんだなぁというのがひしひしと伝わってくる

資本主義=時間を守る

最近、色んな人と社会情勢の話をすると、「人間って根本的に雇われて働くことが得意ではないよね」という話にたどり着く。小学校の頃から時間を守ること等などを訓練させられるからそれなりにできてるように見えるだけなんじゃないか、と。

もちろん、組織をマネジメントするとかルールを徹底するとか、そういう社会的な能力を身につけられる人もいるけど、それは後天的なもので、すべての人間が生まれ持っているわけではないんだろう。

よく日本人は昔から勤勉だと言われるけど、明治維新直後の工業労働者はほんとに使えなかったらしい。そりゃそうだ、いままでやっていたのは割りと時間の裁量を自分で決められる農業や職人的モノ作りが中心で、時間にはそんなに縛られていなかったんだもの。その勤勉の質の転換をしたからこそ、富国強兵政策が動き出したし、戦後日本の経済発展にも繋がっている。

そう考えると資本主義的に発展するには何が何でも時間を守るということが必要だ。時間が決められていないと工場は動かせないし、デパートも営業できない、人も雇いづらい。でも、その資本主義に不可欠な要素が、人間にはあんまり合っていない。

この矛盾をどう解決するか。
1つは、全人類が社会能力(本源的に「時間を守る能力」)を完全に身につけることができるようなトレーニング方法を編み出して、資本主義体制に完全に適合する。ただ、これはとても難しい。すでに発達障害などの問題が大きく取り上げられるようになっているように、先天的なモノと社会能力がどうしても適合しないことは十分に考えられる。それを無理に適合させるということは個人の尊厳を大きく損ねることになる。加えてそんなことができるような科学力があるのなら、そういった管理はとっとと機械か人工知能に任せてしまう方がよっぽどコストパフォーマンスがいいはずだ。

もう1つは、雇われて働く以外のやり方(自営業など)への道を開く。個人事業主として届け出ていなくてもいくらかは経費(?)で落とせるくらいのインセンティブをつけるとか。
戦後日本では、被雇用者を増やすことによって所得税を確実に天引きして財政を安定化させ、一方で農業への機械導入等による余剰労働力を企業が吸収することで、ピッタリと歯車が噛み合っていた。しかしあまりにそのやり方に固執しすぎて、個人事業主とサラリーマンの税制に大きな隔たりがある。加えて、健康保険も社会保険国民健康保険、厚生年金と国民年金では負担度がかなり違う。もう少し歩み寄りがあってもいいのではないかと思う。

もう一つ、フレックスタイムとかホワイトカラーエグゼンプションについて書こうと思ったけど力尽きたのでやめる。

聖スタニスラウスのポロネーズ

8年ぶりくらいに、「聖スタニスラウスのポロネーズ第2番(S.519)」を聴いて完全にハマっている。これまでのリストの作品のような余分な装飾はほとんど消え去って、端正さを極めている。こんなに清潔なポロネーズは他に聴いたことがない。
ラヴェルのような印象派古典的和声と、まるで宮廷の中を歩いているような優雅かつ落ち着き払ったメロディに、もはや理屈抜きに涙がこみ上げてしまった。しかも1875年(ラヴェルが生まれたばっかりの年)に作られているということにただただ驚愕するばかり。
他の作曲者の作品も含め、ポロネーズというジャンルの最高傑作と言っても過言ではない。

2017年骨太の方針(2017/6/9)

2017年年6月9日、「経済財政運営と改革の基本方針2017~人材への投資を通じた生産性の向上~」(骨太方針)が経済財政諮問会議での答申を経て、閣議決定されました。
http://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/cabinet/2017/decision0609.html

基本方針36ページにおいて、生活保護については以下のような方針が掲げられています。

生活保護制度、生活困窮者自立支援制度の見直し
医療扶助費の適正化のため頻回受診対策や後発医薬品の使用促進を強化するとともに、生活習慣病予防等のための効果的・効率的な健康管理に向け、データヘルス実施の仕組みを検討する。子供の生活習慣改善に向け、学校等と連携したモデル的な取組について検討を行う。生活保護世帯の子供の大学等への進学を含めた自立支援に、必要な財源を確保しつつ取り組む。就労支援事業について、参加率や就労・増収の状況に大きな地域差が存在していることを踏まえ、就労支援を推進する。扶養の状況等を把握し、適切な保護の実施を図る。生活扶助基準について、一般低所得世帯の消費実態との均衡等の観点からきめ細かく検証する。級地について、見直しに向け必要な検証等に取り組む。支援につながっていない生活困窮者を把握し、世帯全体への支援につなげる相談支援体制の整備を進め、地域の実情を踏まえ、就労準備支援事業の促進策や家計相談、子供の学習支援、居住支援の推進など、自立に向けた支援メニューの見直しについて費用や効果の観点も踏まえつつ検討する。

国民の義務の考察(納税の権利)

「働かざるもの食うべからず」の原則

一般に、日本国憲法に規定される国民の三大義務といえば「納税の義務」、「勤労の義務」、「子女に普通教育を受けさせる義務」とされている。

しかし当初、国会に提出された日本国憲法原案には納税の義務と勤労の義務は規定されていなかった。これはどういうことかといえば、「個人の人権のその裏にはもちろん義務があるが、その義務は一括して憲法12条に記載をしている」という基本方針によって憲法が作られているから(金森徳次郎国務大臣・衆委・昭21.7.2)。
教育を受けさせる義務だけはどうしても12条から導き出せないけれど、国民統治を実現するためには必要なことなので規定されている。

つまり日本の憲法によって国民が負う本源的義務は「不断の努力によって権利を保持し、濫用せず、常に公共の福祉のために利用する義務(12条)」と「教育を受けさせる義務」の2つということになる。その帰結として「納税の義務」、「勤労の義務」は12条義務の範囲を超えない限りで解釈しなければならないというのが正しいといえる。

そうすると27条の「勤労の義務」は、同条において全て国民が有する勤労の権利の行使にあたって他の人権を侵害してはならない、教育を受けさせる義務を侵害してはならない、といった具合の義務の内容になる。
例示すれば、「公務員の地位にないのに公務員として働く権利を主張する(公務員選定権の侵害)」、「芸能活動をする児童が働いているからといって普通教育を免れるといったことは出来ない(普通教育を受けさせる義務の侵害)」、というようなことになる。

25条(生存権)の具体的施策たる生活保護受給権を行使する、あるいは無拠出型障害年金の受給権を行使するにあたり「勤労の義務を果たさないのに権利を主張している」と批判することは、日本国憲法の構造からすると想定外の批判だ。

義務を果たさないものは権利行使すべきでない、その標語は(どちらが先かということに争いはあるものの)正しいことだと思う。ただ、憲法上における義務は、ほとんど12条の「濫用しない義務」に集約されるということになる。


納税の義務について検討する。12条義務に合致するように義務を解釈するなら、上述のように、勤労の義務には濫用を許されない権利(前提権利)となる勤労権がある。そして26条2項の普通教育を受けさせる義務については1項に教育を受ける権利が記述されているが、これは教育を受ける側と受けさせる側についての関係性について特別に規定された義務だから、そこに疑念を挟む余地はない。納税の義務はどうであろうか。これは憲法30条に「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。」としているのみで、前提権利が何であるかについての記載がない。これは第3章の中にあって他の条項とは異なる30条の特筆すべき点であろう。しかし12条義務の範囲で本条を解釈するなら、やはり、納税の義務についても前提権利が存在するはずだ。

もし前提権利が存在するのでなく、つまり「何かの権利について濫用してはならない」という12条の義務の範囲を超えて、納税の義務を負うとする意味での特別の規定と解するなら、どのようになるか。
84条において「あらたに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要とする。」とされており、国会での審議でも「納税の義務は…後ろの方にありまする第80条(憲84条)などに於きましては、裏面から納税の義務の動かさざる存在であることをあきらかにして居ります。」としている(金森徳次郎国務大臣・衆本・昭和21.6.25)
この84条の租税に関する法律は98条1項によって、憲法に反するものは効力を有しない。つまり第3章に掲げられる国民の権利を不当に侵害する租税は排除され得る。
もし30条が特別の規定であったとしても、その「法律の定めるところにより」との文言上、同じく98条1項によってその内容には制限がある。ゆえに30条において負担する納税の義務の範囲も、実質的には12条における義務の範囲内であるということになって、特別の規定と解する意味が失われる。
また金森徳次郎国務大臣地方税の課税の正当性について、84条では解釈が困難であるが、30条において地方税をも負担する義務を見出す根拠となり得ることを答弁している(貴委・昭和21.9.25)。しかし30条がなかったとしても、84条と第8章地方自治における92条、94条によって地方税課税の根拠とすることにはなんら問題がなく、地方税課税の唯一の根拠として30条をとらえる必要はない。

このようにしてやはり30条にも12条を適用して、前提権利があると解釈するのが妥当であろう。そして本条が第3章に規定されていること、第3章に記載されている義務には同条内に権利も含めて記述されていることを勘案すれば、30条は納税の義務に対応した納税の権利が存在することを仄めかすものと考えるべきだ。また30条の文言からすれば、納税の権利の具体的内容は、法律に則った租税を収める権利および租税に関する適切な法律を制定することを求める国務請求権といえる。
なぜなら前者の権利について、納税に関する法律に納税をしないことによって刑罰が科されるものがあり、行政が恣意的に納税を拒んだとしたら国民にとっては課されることのなかったはずの罰を受けることになるからだ。30条は法律に定めるところによって納税をすることを保障しているといえる。これは国家からの自由に資する。
また、後者の権利について、84条は租税を課す場合の手続きと内容の正当性を保障するものであるが、国に課税をする意思がなければ84条の規定にのらないということも考えられるからだ。86条において内閣が歳入を含めた予算を作成することになっているとしても、全ての歳入を国債で賄う、あるいは租税によって必要的歳入が不足することによって歳出を拒むことも理論的には可能とされるわけで、課税をしなければならない根拠にはならない。国民の側に納税の権利が存することを認めて初めて84条、86条が実質的な意味を持つ。これは国家への自由および国家による自由に資する。また、今ある租税法がたとえば経済活動の自由を著しく制限しているような場合にそれを適切な基準に改めるよう求めるとすれば、国家からの自由の側面も垣間見える。

このように解することはフランス人権宣言第13条(租税の分担)前段と矛盾することもない。

 

■フランス人権宣言第13条(租税の分担)
公の武力の維持および行政の支出のために、共同の租税が不可欠である。共同の租税は、すべての市民の間で、その能力に応じて、平等に分担されなければならない

 

 

なお、納税の権利と納税者の権利は別モノ(別の概念)なのであしからず。

http://www.nikkeibp.co.jp/article/sj/20130131/338731/?P=1&ST=mobile

支持率調査を報道することは憲法で保障されているか

ネットでよく揶揄されているが、安倍総理は答弁ができないときにいつも支持率で自分を正当化するか、質問相手を貶める。

そもそも支持率なんて調査・報道しなければいいのではないかと思う。

でも世論調査表現の自由報道の自由で認められてるし、マスコミ等にやめさせるわけにはいかないんじゃないかと。。。。

そこで下記検討。

 

 

報道の自由憲法上保障されている。

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博多駅テレビフィルム提出命令事件(最大決昭44.11.26)
報道機関の報道は、民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の「知る権利」に奉仕するものである。したがって、思想の表明の自由とならんで、事実の報道の自由は、表現の自由を規定した憲法21条の保障のもとにあることはいうまでもない。
報道機関の報道が正しい内容を持つためには、報道の自由とともに、報道のための取材の自由も、憲法21条の精神に照らし、十分尊重に値する。

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・この判例からすれば内閣支持率政党支持率等の世論調査も取材の自由、報道の自由として保障されるものと解するのが普通だろう。
・しかし、上記判例は、報道される事実が必ず国政に関与するための重要な判断の資料に資するか否か、また判断資料とされない事実がある場合、その事実を報道することが報道の自由として認められるか否かまでは検討していない。
・たとえ事実の報道だとしても、他の事実と競合し、人を惑わせることがある。例えば国政政党の支持率と得票率はどちらも国政政党に対する信託について調査したものだが、その結果に違いが現れる。このため具体的な検討が必要と考えられる。
・選挙における被選挙者および政党の得票率は、直接選挙の結果を示すものであり、国民の政治参加を省みるための重要な資料と言える一方、内閣支持率政党支持率はどうだろうか。
・これらについて、選挙期間にない期間における政治の過程を評価した一指標という事実であり、国政判断資料として採用されるべきとの意見がある。
・報道を受ける国民の側にとっては、支持率調査という指標は、憲法上、国民の判断に奉仕する取材の自由及び報道の自由の行使主体であるマスメディアがその使命に基づいて発したものであるから、支持率は国政判断資料として利用すべき事実と推定する。
・この結果、国民が支持率を国政参加の判断資料とする場合は現在の国政の正当性の指標として利用することになる(みんなが支持してるから正しい)。支持率調査の「国民が支持しているかどうか」という単なる観点では、調査の対象となっている内閣、政党の行いが正しいか否かを判断するものではない以上、そのようなことになる。
・しかし実際には、内閣が国民の圧倒的多数に支持されているからといって内閣の政策が必ず全ての国民にとって利益がある(いわば「正しい政治である」)とする合理的理由はない。(本命題が裁判において真なるものとして採用されれば、少数意見支持政党の国会議員による国会質疑は意味をなさない。)
・このことから、支持率はその性質上、それを報道することによって、国民主権の観点から本来的に重視されるべき「現在の国政が真に国民生活に資するものであるか否か」の判断を極めて困難にする。また、支持率がおよそ明確で印象に残りやすい「数値」の形で表現されていること、被雇用者の労働時間の長時間化、国家施策一つ一つの複雑性の深化等の社会状況に鑑みれば、いくらインターネットで情報が公開されているとしても国民が自身で国家施策の国民に寄与するものであるかどうかを判断することは難しく、支持率という事実に頼らざるをえないためにその害悪性は高まっている。
・また国会議員日本国籍を有するものである以上、国会議員および総理大臣および国務大臣も支持率を国政参加の資料とする。国政の正当性の指標として受け取られ得、それはそのまま自己の政策や提案を正当化し、そのことのみによって反対意見を排除する恐れがあり、この点からも弊害があることを見逃してはいけない。
・事実が国民が国政に関与する際の判断資料になるか否かは、①当該事実が国政が国民または自身の生活に寄与するか否かを判断するものとして利用する合理的関連性を持つものか、②当該事実がその表現方法や国民を取り巻く社会環境と相まって他の事実を圧倒し他事実を取得・検証することを困難にするものか、③当該事実がそれが立法過程、行政作用の段階においてその地位に与えられている権能を実質的に機能させなくなるものか、考慮し、どれも満たさない場合には判断資料にならないものとして決せられるべきだろう。
・以上国政における内閣および政党について検証したが、都道府県知事および都道府県議会の議員及び政党、市町村長および市町村議会の議員及び政党でも同様だろうか。この点、②、③については国政における問題と同様の問題があるものの、①については地方公共団体には住民自治の観点から条例の制定・改廃請求や議会解散請求、議員・知事の解職請求といった直接請求の制度が整っており、支持率報道が与える現時点において住民にどの程度支持されているかという事実は、それによって直接請求の実現可能性を探る手がかりとなるため、住民及び自身の生活に寄与するものとして利用する合理的関連性を有する。このように解すれば、住民の政治参加の判断資料として採用することが可能となる。
・個別の政策における世論調査はどうか。①、②について、国民は個別の政策について随時国政に関与できる制度を持っていないため問題とならない。③については、当該施策に対する支持率が低い場合には、国会議員が国民の知る権利を確保するために議案提出者に対して議案の内容を深めることを要請しうる資料となり、その権能を弱めるものではない。このように解すれば、国民の政治参加の判断資料として採用することが可能となる。
・以上指摘したように事実が必ず国民の政治参加の判断資料とならない可能性は多いにあるが、判断資料とならない事実についても報道する自由が認められるかについては、博多駅テレビフィルム事件の判例に立ち返り、自己統治を実現する知る権利に奉仕しないのだから、憲法上保障されているとは言い難いと思う。