テンポラリー

そのときに思いついたことの備忘録。租税について考えることが多い

株式納税は、国営化を目指すものか?

前々回(1/3)、物で収める税(現物財産税)として株式納税(株式課徴)を考えた。

国家権力による一方的に国民や法人が保有する株式を徴収することで、ゼロコストで株式を取得しインカムゲインを得るという算段だ。

これは財政難にあえぐ各国(特に日本)に対し、貨幣租税、公債に次ぐ新たな財源として検討してはどうかという個人的な提案だ。

株式課徴は租税の一種と考えられるが、ゆくゆくは企業活動によって得られる収益の割合が増加、租税国家を超克する。

岩波文庫(白147-4)の「租税国家の危機」(シュンペーター著)の解説を読み直してみると、そこにズルタンという人が租税国家、企業者国家、債務者国家なる語句を用いて、国家と経済の統合関係を説明したというようなことが書いてあった。ズルタン先生のその著書を読んだことがないのでわからないけど、語句の響きだけで考えると、株式課徴を行う国家は、企業者国家というところに分類されるのではないかと感じた。

 

それはさておき、株式課徴を他人に提案するときに、タイトルのことを気をつけなければいけない。株式課徴は将来的に国内の全企業の株式を100パーセント国が保有することを目指すのか。つまり、全部の株式会社が国営化されるのか。

この問題を考えるときの重要な観点の一つは、国家と国民の関係は本質的にどのようなものであるかということだ。これは古い問題だ。

マルクスのように、特権階級が労働者を支配するためのツールとして生まれたものと考えるのか、あるいは同氏の描く革命によってコントローラブルになった存在と考えるか、はたまたケインズのように全体の利益を考える中立的な存在として考えるのか…etc、ということだ。

残念ながら各人の思想を理解しきれていないので、僕はこの観点からの答えをまだ持ち合わせていない。

 

もう一つは株主と会社の関係だ。会社法はこれから勉強するので、これまた未だに答えを持っていない。

ただ、株主は有限責任なのは確かで、仮に株式会社が不法行為を行って膨大な損害賠償責任を負った場合、株主の責任は株式の範囲に限定されている。一方、国家は諸経済法によって各経済主体を監視する役割を担っている。そのような存在である国家が株式課徴の結果、一株式会社の大株主になっていた場合、監視者としての責任は、通常よりも大きいだろうということになる。そうすると、国家は実質的に株式の範囲以上の責任を負う可能性がある。この場合、株式の有限責任という意義は失われるのではないか?

国家の株式持ち分は経営の意思決定に参加できないことにするとか、特別の論理的手当が必要に思える。

そうでない限りは、国家が一株式会社の株式について課徴、保有できる数は、当該株式会社の発行済株式総数の10%以下というように制限を加えざるを得ないだろう。