テンポラリー

そのときに思いついたことの備忘録。租税について考えることが多い

「自閉スペクトラムには切れ目がない」←これのせいで被害者が増えている

■覚書(1)──アスペルガーの言語能力について

アスペルガー症候群(AS)は言語能力に問題のない自閉症スペクトラム障害だと言われるが、僕はそれなりの数のアスペルガー(未診断・疑いを含む)の人たちと接してきた上で、そのような言語能力についての説明にも懐疑的である必要があると感じている。

言語というのは意思疎通のためのツールであり、意思疎通とは自己の内心が相手に伝わり理解されることをいう。
そうであれば、そのツールである言語について求められる能力は、単に文法規則を理解するというだけでは足りず、自己の内心を相手に伝え、相手の発話から相手の内心を読み取るということまで当然に含まれると解釈すべきではないだろうか。

もっとも、これに対して、「文法規則を理解して文章を組み立てることのみが言語能力であり、意思疎通の機能は意思疎通能力(コミュニケーション能力)の問題であるから、アスペルガー者は従来どおり、言語能力に問題はないが、コミュニケーション能力に障害があると解釈すべきだ」という批判はもちろんあるだろう。
しかし僕が上述のように解釈すべきだとするのは理由がある。
従来の解釈が、定型発達者がアスペルガー者と衝突を抱えたときの「言葉が伝わるんだから説明を尽くせばきっと理解してくれるだろう」という余計な期待を生じさせており、それが両者の無用な人間関係の崩壊を招来していると感じたのだ。

自閉症スペクトラムはコミュニケーション能力のグラデーションであるから、完璧なコミュニケーション能力を有している人間など存在しないし、定型発達と自閉症スペクトラム障害の間にはどこかで線を引けるものではないというのが現在の通説的な理解だ。

しかし、僕が幾人かのアスペルガー者と接触を経て思うには、定型発達者とアスペルガー者の間には、その利用言語について明確な性質の断絶がある。

僕の元妻は、アスペルガーとの診断は受けていないものの、実の母親から「この子は発達障害だ」とほとんど断定的に推定されていた。
また僕よりずっと良い大学の出身で知能の遅れはないので、アスペルガー者であると推定される。

そんな元妻とのやり取りの中で、今でもよく心に残っている会話がある。

僕は当時SuicaPASMOの両方を持っていて、その他回数券やよく使うポイントカードなどをパスケースに入れて使っている。
僕がそのパスケースをその時その時でPASMOSuica、定期入れ、カードケース…などと様々な呼び方をしていたことは彼女ももちろん承知しているはずだった。

ある日二人で出かけるときに、それを家に忘れてきてしまったので、「PASMOを忘れたからとってくる、追いつくから先に駅に向かっておいて!」と話し、取りに戻った。
そして再び合流したときに、元妻が「今日はPASMOで行くんだね」と話しかけてきた。
僕は虚をつかれ、返事を濁してしまった。

僕にとってはパスケース全体のなかの一代表物としてPASMOといったに過ぎない。
共同生活を送っていれば、「僕の持っているPASMO」はパスケース全体を指すことは容易に理解されるはずだった。
しかし彼女にとってはPASMOといえばまず第一次的に「一枚のICカード乗車券PASMO」だから、「今日はPASMOで行くんだ」と考えたのは当然のことだった。
PASMOが1枚のカードだということは、まぁ世間一般に認識しうる意味はそれであり、間違っていない。

これがどういうことかといえば、アスペルガー者は主観的に理解した言葉の意味を、目まぐるしく変わる客観的状況によって修正することができないということだ。
上記の発言は、彼女の主観として取り入れられた一般的なPASMOの認識が共同生活という客観的事情によっては修正されなかったことを意味する。
つづいて、説明をすれば「あぁなるほどたしかにそうだよね」と、客観的状況で修正された意味を理解する言葉が出てくるかもしれない。

PASMOという言葉の認識の仕方一つをとっても、僕と彼女の間には大きな隔たりがあったわけで、彼女の言語能力に障害がなかったとは言い難い。
同じ日本語、同じ単語を使っていても、方や彼女のそれは主観客観混和言語であり、方や僕のそれは主観客観分離言語と言える。
プログラミング言語で例えるならば、この両者間の言語の差異は、語句という変数のデータ型がint型かstring型かという以上に大きい。

ゆえに、「言葉が通じるならば理解してくれる」という期待が生まれるわけだが、明らかに使用している言語の性質が違う以上、それは幻想に近い。
より複雑な構造を持った文章で意思疎通を測れば、事実や内心について両者は全く異なる認識をもつことは明白で、それを修正することなど不可能だ。
混和言語は、主観と客観の分離ができないからこそ形成される。
それを分離させて理解させようとするのは盲者に前を見て歩けというくらい酷で苦痛で拷問になる。
話し合いをすること自体がアスペルガー者にとっては嫌がらせにしかならない。

よって、自閉スペクトラムを「境目のないグラデーション」だと説明するのは、たとえそれが医学的には正しいかもしれなくても、社会生活上は定型発達者とアスペルガー者の対立を必要以上に、また深刻に激化させるものであり、悪影響が大きすぎる。
グラデーションだと捉えると、相手をアスペルガーだと認定することも困難で、困難である以上定型発達として取り扱うしかなく、トラブルが起きてもまず話し合いで解決を試みてしまうが、これこそがアスペルガー者に対して最もやってはいけない接し方なのだ。
そしてグラデーションと言われれば、一つ一つの事案があまりにも個別具体的になりすぎて、他者の事案を自身の事案に適用することも困難だし、周囲がアドバイスもできない。

むしろアスペルガー者も定型発達と全く同質の言語能力は獲得していないと認定して、その帯のどこかの地点に言語能力障害の有無によって明確に線を引くことが、上記の期待を発生させないために、また相互理解のために便宜がある。
区分して、両者の相違を明確にすると、相手がアスペルガー者であるか否かは判定しやすく、また定型発達とアスペルガーを明確に対峙させることによって対処法を一般化することのほうが、解決の糸口が見えやすい。

アスペルガー者は「言葉の裏側を読み取れない」といわれるが、定型発達が言語によって表したいものは常に自己の内心であり、それを表現するためには発した言葉の事実と合致していなくてはならないとは必ずしも思わない(冗談、皮肉など)し、むしろその手法こそがもっとも内心をよく表している。
そういうわけで、アスペルガー者は言葉の裏側ではなく表側が読み取れないというのが正しい。