テンポラリー

そのときに思いついたことの備忘録。租税について考えることが多い

Mr.ゲイ・コンテストに難癖をつけるの巻

 

ショスタコーヴィチがプロポーズまでした鬼才溢るる弟子として、ウストヴォルスカヤという女性現代作曲家がいる。まず、彼女が遺したというこんな言葉を紹介したい。

『もし女性作曲家音楽祭のような演奏会があったとすればそれは屈辱以外の何物でもない』


=====続いて記事引用=====
世界一のゲイを決めるコンテスト「ミスター・ゲイ・ワールド」の日本代表エントリーが1月15日よりスタートした。
http://genxy-net.com/post_theme04/116418ll/

「ミスター・ゲイ・ワールド」とは、毎年世界中から各国代表が集い優勝者を決定する、世界最大のゲイ・コンテスト。
公式Facebookによると、日本代表の「ミスター・ゲイ・ジャパン」となれば、『日本のLGBTQの環境改善推進と同性婚の合法化』のメッセージを発信し、様々な活動を行うそうだ。

【応募条件】
・事務局指定のSNSアカウントの開設及び指導に基づく運用が可能な方
・積極的に活動に取り組める方
・撮影、イベント、日本代表選考会、及び、5月開催予定の世界大会への出場が可能な方
・交通費は自己負担
・未成年は保護者の同意書が必要


======続いて難癖=====

ミス○○とか、ミスター○○って、審査基準はたいてい曖昧だけど、個人が持つ魅力をいかに外見に体現しているかが要になっていると思う。

それからミス慶応とかミスター石川県とか、ある集団や帰属に限定するということもある。あるいは一つの応募要件では漠然としすぎているので、審査の基準のヒントとして今回のテーマとかが与えられることもある(例えばミス日本2018のテーマは「羽ばたく行動美人」)。

これらを加味すると、外見に体現されるべきものは、「自分自身の個性+α(その帰属社会での生活、テーマに合致した人格や経験によって得られたもの)」ということになるだろう。
こういうふうに考えるとミスターゲイコンテストでは、「自分自身の個性+セクシャルマイノリティとしての生活、ゲイという性指向によって得られたもの」というのが審査基準になってきそうだ。

でも、こんなに擁護してみたのに、他のコンテストの審査基準とさほど変わらないのに、それでも胡散臭さを拭えないのはなぜだろうか。
それは本当にLGBTQの環境改善に貢献するのかという点で疑問が残るからだと思う。

(1)もともとコンテストというのはものすごく閉鎖的なもので、クラスの中で誰が1番カッコイイか、クラブの中で誰が1番可愛いかということに端を発していて、グループ内で盛り上がるためというのが目的にあるように思う。
もっとも、LGBTの場合、内輪となる社会がまだ成熟していない、または存在はしているものの全ての該当者が包摂されている社会ではない。
コンテストがミスとミスターで別れるのは、芸術表現の優越を比べるときにピアノと油絵を一つのコンクールで争わせることが滅多にないのと同じ、仕方の無いことだと理解している。けれども、性指向で無理やり区切って1つの社会に見せかけたところで、優勝者を決めることにどんな意味があるのだろうか。
そして何よりLGBT社会の中に連帯が生まれていない。カミングアウトの問題以外で、全てのセクシャルマイノリティに共通する深刻な悩みがない。結婚しようと思っていないゲイが結婚したいゲイのために、子供に興味のないゲイが子供を持ちたいゲイのために何か活動をしているというのを、(不勉強かもしれないけど)あまり知らない。
そんなこんなでミスターゲイが選出されたとしても、ごく一部のゲイ社会の代表にしかならない。そこが1つの忌避感となっているのではないかと考える。

(2)そしてもう一つは、+αの基準というのがなるべく対象を明確化することと、公平を期すために添えられるものにすぎないということだ。「人の容姿の好みは千差万別だけど、このテーマだったらこの結果にもまぁ納得できますよね」といういいわけ、あくまで+αでしかなくて、それをグループ社会の外側にアピールするときに全面に押し出したところで影響力は小さい。それどころか、その社会の外部の人間としては受賞者を容姿の好みだけで判断するしかないので、人によってはその容姿が気に入らず、どんな正しい訴えでもその容姿まるごと拒絶されてしまう恐れさえある。

つまり↑の記事によるとミスター・ゲイ受賞者はかっこよくて、ゲイの自分をよく表現しているという理由だけで『日本のLGBTQの環境改善推進と同性婚の合法化』のメッセージを発信するという使命を負わされる運命にある。これはなかなか悲劇だし、熱のこもったアピールなんてできるわけがない。LGBTQの地位向上のためにコンテストを行うというアプローチに違和感を覚えざるを得ない。


だいたい、どうしてゲイだけがコンテストを開催するんだろう。
黒人が地位向上のためにミス黒人コンテストを開く、障害者団体がミスター障害者コンテストを開くとなったら、大抵の人は「これ、ヤバいコンテストなんじゃないのか?」って思うだろう。ウストヴォルスカヤに乗っかれば、自分達から進んで屈辱を受けようとしている状態だ。
ゲイ界隈には黒人たちや障害者たちのような連帯すら未発達だから、コンテストでゲイ社会の絆を深めるというんならうなずけるけど、そこに地位向上とかいう異質なファンクションを求めるのは違うと思う。お祭りはそのままお祭りにしておいて、地位向上については別に政策コンペでもやったほうがよっぽど有益なんじゃなかろうか。

検討しないといけないことは結構あると思う。1つは、同性婚を推進するだけでは片手落ちなのではないかということ。
結婚したいセクシャルマイノリティにとっては悲願だろうが、彼ら彼女らが結婚していってあとに残るのは結婚したくないセクシャルマイノリティだ。セクシャルマイノリティは本当に様々でLGBTで結婚したくない人もいるし、その他にAセクシャルとかノンセクシャルという人もいる。同性婚はこういう層にとっての重要課題ではない。LGBTの問題として同性婚はわかりやすい課題なのでワンフレーズアピールをしてしまいがちだが、さらなるマイノリティを生み出すことにつながりかねない。連帯を自ら断ち切ってしまっては無意味だ。
むしろ、LGBTその他のマイノリティだけでなく、ストレートとも積極的に連帯を築くことが重要ではないだろうか。
たとえば性的指向性自認にかかわらず、多くの婚姻状態にない者にとっては両親親戚からの結婚プレッシャーは大変嫌なものだ。イエを継ぐのが当たり前という前提。セクシャルマイノリティをカミングアウトしにくいのもこれが根幹にある。LGBT団体が「結婚しなくても良い社会づくり」をリードしても良いんじゃないか。養子を取りやすくするとか、期限付き養子制度みたいなのを作ってみるとか皇室典範改正して養子オッケーにして社会世論変革を目論むとかやりようはある。自分たちだけの課題に閉じこもる必要はない。

 

少し話が逸れてしまうが、結婚のプレッシャーは父や叔父よりも母・叔母のほうが強い傾向にあると思う。これは多くの女性が結婚で夫の姓になるという体験をするからだろう。映画「千と千尋の神隠し」では、主人公の荻野千尋が名前を取られて千と名乗るうちに自分自身を喪失していく様が描かれた。さすがに現実で我を忘れていくことはないだろうが、名字が変わるとき、愛する人と一緒になるという幸せの反面、やはり身を引き裂かれるような想いをしているに違いない。出産すると歯も弱くなる。女性は自分のアイデンティティ、身体を全て投げ打って夫のイエを支え、子を育てる。これは大変尊い、名誉ある営みだ。そうであるからこそ、息子にはそのイエを継いでほしい、次代に名字を残して欲しい、娘には同じ尊さを得てほしい、という想いは切実なものになるんだろう。それが叶わなかったときの悲しみや喪失感は、男性にはにわかに想像できない。

そしてそれを理解してくると、結婚していないこと、子供がいないことに後ろめたさを感じるし、一層カミングアウトもし辛いはず。LGBT団体には、夫婦別姓問題についてもしっかりコミットして欲しい。

 

それからもう一つは、同性婚をどこまで望んでいるのかということ。もちろん男女結婚と同じが法の下の平等という点でも究極の理想だし、アムネスティなどのNGOもそれを掲げているのだけど、実際のセクシャルマイノリティの一人ひとりが、結婚で何を得たいのかを考えてみて欲しい。たとえば制度面で配偶者控除がなくてもいいとか、田舎でも結婚式があげられるような風土づくりをしたいのか(親族の顔合わせですからね)とか。姓の変更をどう思うのか。


以上、セクシャルマイノリティの活動実績などを無理解のまま難癖をつけた。この破格の無礼をお詫び申し上げる次第である。