テンポラリー

そのときに思いついたことの備忘録。租税について考えることが多い

フランツ・リストと社会主義

フランツ・リストが若い頃、サン・シモン主義に多大な影響を受けたという。
昔は軽く読み飛ばしていたが、リストの遺した作品たちがどのようにして生まれたかということについて思いを巡らせてみると、その思想が非常に重要であることがわかってきた。

インターネット上の投稿等によると、サン・シモン主義は、ユートピア社会主義、原始的社会主義、宗教的社会主義という評価を受けているようだ。社会主義という言葉に抵抗がある日本人は多いかもしれないが、経済学的な説明としては「人々が幸福になるためには自由を獲得し、富を生産することが重視する」、「また自由競争で人々の間に経済的格差が生じた時に、富を有するものが社会的貢献の使命を自覚して貧しきものに施しをすることで格差を修正し、社会全体の幸福を実現する」という話で、何かしらの不当な人権抑制を課すようなものではないようだ。
それはともかく、重要なのは、サン・シモン主義が実践されるときの宗教の役割で、貧しい者に施しをすることをキリスト教カトリック)の権威によって人々に啓示するということだ。

サンシモン主義の要約は↓がわかりやすい
http://www.y-history.net/appendix/wh1201-084.html

 

■サン・シモン主義はどうして生まれたのか。

それは政教分離という近代の自然権思想の理想と現実とのギャップをどのようにクリアしていくべきかを探る必要があったからだ。
サン・シモン主義はフランスで生まれた。旧制フランスはカトリックと相思相愛の国だった。カトリックが国の宗教であったので、教会の運営費は国家予算から支払われていた(司祭の給料など)。一方で各教会の人事権はローマ法王が握っていた。
しかし、革命の際にはフランス国内の宗教家たちが市民とともに絶対王政を倒す革命側に立って活動する例も多く見られた。市民革命以降、国家は人民のものになり、すべての財政を通じた活動について民主的なコントロールを及ぼすべし、という事になった。同時に、カトリックの地位は「国家の宗教」から「国民の宗教」となった。統治機構そのものが宗教的ルールに服するのではなく、あくまで権力の契機たる国民がそれぞれに信じるものでしかないということになった。近代国家黎明期、政教分離というのは非常に曖昧だっただったように思えるけど、この地位の変化は当時のフランス人の90%がカトリック教徒だったとしても、実に大きな変革だった。

論理的には次のようなことが言える。国民主権で物事を決めるのだから、教会人事もローマ法王ではなく国家が担うべきである、と。実際、当時の教会にはフランスに従うか、ローマ法王に従うかという決断を強いられ、大きく二分された。簡単に言えば前者教会には宗教上の栄えある身分が与えられ、後者教会はその資産を接収された。このために、市民とともに革命を達成したカトリック教会(の一部)は、一転、民主国家は誤りであると厳しく糾弾した。彼らはのちに、王政復古を支持するが、ルイ18世は7月革命で倒されていく。

さて、カトリックの国家的地位が低迷したとき、宗教とは何のために存在するのか?ということを考えなければならなくなる。わかりやすい切り分け方は、民主国家は現実的・物理的領域を支配し、宗教は精神的領域を支配するものだという区別だが、そうなると宗教は皆肉体を捨て、この世から消えていくものだということになってしまう。しかし宗教組織や建物は現実に存在する。現実に存在するそれらが現実の世でどのような使命を担っているのか。
その問に一つの答えを提案したのが、サン・シモン主義だった。宗教に冒頭に示したような地位を付与し、自由と平等の渦で変化する世界での意味付けを試みた。(しかしローマ法王にはウケが悪かったようだ。)

 

■リストとサンシモン主義

リストは幼いころから敬虔なカトリック教徒であると同時に、自由が享受できることの重要性を社会から感じ取っていた。彼自身は血筋的にはハンガリー、ドイツに縁があるけど、若い頃はフランスで活躍したし、言語もフランス語が一番得意だった。彼がサン・シモン主義に影響を受けるのも自然なことだ(リストはラムネー神父からその思想を学んだ)。というか、サン・シモン主義は当時のフランス社交界でかなり流行っていたのかもしれない。ショパンの恋人にジョルジュ・サンドという女性がいるが、彼女もサン・シモン主義を支持していたし、リストの一人目の妻マリー・ダグーも同様だった。

それにしてもリストの生き様には、他の人よりもサン・シモン主義がよく表れているというべきだろう。「天才は役に立たなければならない」といって、洪水被害があったハンガリーのためにチャリティコンサートを開く、ベートーヴェンの生誕75年祭のときにはベートーヴェン銅像を建立する費用を支出する、マスタークラスではレッスン料を徴収しない、無名な音楽家のために紹介状をひたすら書く、ワイマール宮廷楽団の楽長をしていたときには団員の給料を上げるように抗議する…などなど。
死に際でさえ、ワーグナーを喪ったバイロイト音楽祭を成功させるために自分が参加する必要があることを強く自覚しており、高熱に悩まされながらも出席し、そこで危篤状態になり、死んでしまう。「マヂでホンっトにメッチャ良いヤツ」という一言では言い表せないほどの献身的な活動を続けた。

そんなリストは、宗教音楽の改革を、当時の人々にも理解しやすいモノにしていく必要があると考え、チェチリア運動に加わった。聖歌の和声づけとか、それを現代譜記法(注:旧式の譜記法はそもそも五線譜ですらない)によって行うとか、だ。それは近代民主国家に生きる人々が宗教に親しむきっかけを作ることにつながり、ひいては宗教のサン・シモン主義的位置づけを認識することにつながると考えたのだろう。


■オラトリオ「キリスト」
一般に、クラシックに親しんでいる人が考えるリストの最高傑作といえば、ロ短調ソナタとか、メフィスト・ワルツ、最高傑作と言わなくても、超絶技巧練習曲、ハンガリー狂詩曲2番とか12番、スペイン狂詩曲、ダンテを読みて、エステ荘の噴水などが割りと名曲として評価を受けている。たしかに僕自身もこれらの曲は好きではあるけれど、彼の生き様からすれば、最高傑作と言うには今ひとつしっくりこない。現代日本ではリストという作曲家は「ピアノの魔術師」、「超絶技巧」というワードで評価されることが多いが、そのような評価は彼を正当に評価していないように思う。リストが一番情熱を注いだのは宗教音楽だからだ。
そこで1872年に完成したキリスト(Christus)というオラトリオを最高傑作として挙げたい。この楽曲はキリストの生誕から復活までの主要なエピソードを第1部、第2部、第3部と分けて3時間に及ぶスケールで描いている。合唱のテキストの大部分はラテン語聖書から採られている。教会旋法を使った古風で牧歌的な音楽で始まるが、物語が進むにつれて半音階と全音階と混合した楽章が現れるなど、非常にアバンギャルドな側面もある。

リスト本人も「この作品は私のすべてを注いだ遺作である」としている。それは音楽的な要素をすべて包含しているということにとどまらず、彼の思想とか祈りとか、彼が生きた社会とか、前妻と破局したけど宗教や財産の関係で離婚が許されなかったことに対する怒りとか、自分の宗教的作品が人々に受け入れられないことへの諦めとか、リストがリストであるに必要であったモノが全て詰め込まれているという意味で捉えるべきなんだと思う。

この曲が出版された1872年には、リストは61歳になっているが、やはりサン・シモン主義的だと思う。曲を聞けば、上述のような宗教曲の現代化とその意義がよくわかるし、宗教ど真ん中の題材をよくぞここまでロマンチックに描くことができたなと感じる。そして僕は実際、各楽章に該当する聖書の部分を読んで、どのような教訓が隠されているのかを調べていた。さすがにキリスト教に改宗する気はないが、現代の国家と人、宗教の関係性についてより深く考えることができたし、僕が普段いろいろ思いを巡らしている租税観にも影響があった。

彼は若い頃に父親をなくし、ピアノ教師をして家族を支えていたので、学問が出来なかった。音楽家として成功していたとしても、無学を大変悔しく思い、負い目に感じることもあったようだ。しかし、リストは、音楽という自分のテリトリーで、当時の学問が目指す理想を実践した。彼のその勇気に敬意を表してこそ、彼を正当に評価するということになるだろう。