テンポラリー

そのときに思いついたことの備忘録。租税について考えることが多い

株式納税

租税の権力関係というのは経済学と法学、哲学の境界領域の問題で、難しい。
僕が考えていることは、その問題を考えて、現実の制度に落とし込む方法なので、双方の専門家からでたらめなアプローチ、理解に値しないものと烙印を押されて当然の代物。
だけど、僕は宣言しないと何もやらない性格なので抱負?を一応公表しておきたい。

今年の僕は、「貨幣以外の納税の方法の模索」というのを大きな検討課題にしたいと思う。

古代の日本には租庸調(稲、物品の租税)と雑徭(労役)という制度がある。国家への捧げ物にはカネ・モノ・カラダという方法があるというのは、一見すると今でも当てはまるように思える。
けれども日本国憲法30条の納税の義務というのは、現行憲法改正時の審議録を見ると、

(1)カネ納税はもちろん義務あり
(2)モノ納税は差し押さえという形で義務あり
(3)一方、カラダ納税は30条からは導き出せず憲法上の義務はなし

という解釈をしているようだ。
僕は憲法30条は納税の権利を裏側から規定している条文だと思っているので、↑の解釈を権利として裏返して見ると、カネ納税の権利、モノ納税の権利があると考えている。
そこで、日本の財政赤字が延々と続いていよいよ駄目っぽいときにどうするかを考えてみると、貨幣(による)納税とは別に、株式(による)納税という概念を編み出してはどうかということに至る。現行でももちろん、貨幣納税ができないときには株式等の金融資産は差し押さえられることもあるけど、それはその資産を競売などでカネに変えて歳入にするという流れになっている。
そうではなくて、有価証券というモノ納税として、国家に有価証券の使用収益は認めるけど、処分(売り渡し)することは認めないという納税方式だ。つまり、国家権力によって強制的に株券を徴収し、国家が企業の株主になる。モノ納税者側の権利によって国家に株式のキャピタルゲインは認めずインカムゲインのみを認めるという制限をつける。租税は個別的な反対債権なく一方的に財産を徴収する国家権力の発動なので、国家はコストをかけることなく株式を収集することができる。
やりすぎれば、究極的には企業を国有化することになる。が、それは経済活動の自由をあまりにも阻害するので、しばらく間は無理というか、そんなことはあってはいけないだろう。

この方法は、第1次世界大戦集結時、深刻な財政悪化で国家デフォルト目前!というオーストリアをどのように再建するかというときに、財政社会学の祖であるゴルトシャイトが提案した方法だ。現実にはこの方法が採られることはなかったけど、非常に魅力的なアイデアではあると思っている。
財政破綻すればIMF国際通貨基金)という国外の機関が国政に大きく干渉することになるが、国家自体が企業を国有化するならば、国家自体が収益を上げられる上に、財政を通じて国民→国家→企業という形で国民が経済政策を決定する余地がある。

「こんな考え方では自由な企業活動が脅かされる、社会主義共産主義だ」と嫌う人もかなりいるのはわかっているけど、僕は民主的経済コントロールがたとえ形式的なモノであったとしてもIMF管理よりはマシかなと思ったりする。
論理としても、財政破綻したからといってなぜ国際機関が介入できるのかは説明しにくいけど、株式納税を認めることと財政を通じた民主的経済再建、有産国家化というのは国民主権という観点からは割と容易に説明できそうな気がする。

最終的(500年後とか)には、租税という形はなくなって、有業国家、有産国家として、社会統合に必要な財源を事業収入で賄うというような形態になっていけばいいな。納税の権利とか言ってみたって、やっぱり税金はない方がいいもんね。