テンポラリー

そのときに思いついたことの備忘録。租税について考えることが多い

観光促進税に見る納税の権利の必要性


出国時1000円の観光促進税 再来年4月で調整

来年度の税制改正を議論している自民党税制調査会は、日本を出国する際に1人当たり1000円を徴収する「観光促進税」について、2019年4月から徴収を始める方向で調整を進めることになりました。
政府・自民党は、来年度の税制改正で、観光分野の政策に充てる財源を確保するため、日本を出国する際に1人当たり1000円を徴収する「観光促進税」を導入する方針です。

これについて、30日に開かれた自民党税制調査会の会合で、国土交通省が「観光促進税」の徴収を2019年4月から始めたいという考えを示したのに対し、出席者から異論は出されず、再来年4月から導入する方向で調整を進めることになりました。
また、およそ5兆円の地方消費税都道府県への配分についても意見が交わされ、「東京などの大都市に偏った配分になっている」などと早急な見直しを求める意見が相次ぐ一方、都市部選出の議員から「東京都などの理解を得るべきだ」といった慎重な対応を求める意見も出され、引き続き調整することになりました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171130/k10011241221000.html?utm_int=news-new_contents_list-items_008

 

 

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いよいよ、納税は義務である前に権利であるということを議論しなければいけないと思う。

憲法22条により、居住移転の自由は認められている現状、出国するにあたって経済的な負担が必要になる。

 

これについて、憲法30条により国民には納税の義務があるから、その義務を履行しないものは当然に出国の自由という権利を行使できないのか。本条は税を徴収する側(国家)の権利義務関係についてはなにも規定していない。(ただ、84条にて租税法律主義を規定するのみだ。)

そうだとすると、仮に出国を許したくないときに、観光促進税を支払うことを国家が拒否することができるとも解釈できる。この場合、個人の出国の希望に関わらず出国することは不可能であり、移転の自由は制限されうる。

 

しかし、以下のような不都合が発生する。

おそらく、観光出国税の条文は「出国を希望するものは、出国のときに1000円を納めなければならない」というような趣旨の文言になるはずだが、納税の機会が、国家の納税拒否によって奪われるということになると、納税の義務があるのにその義務を果たすことができないということになり、妥当でない。

 

ここから、納税は義務である前に権利であることが窺い知れる(同時に国家の側に納税を拒否しない義務)。ただし、観光促進税として法定された後、出国の際に当該税を納めないものはやはり出国できない。

 

しかしそれでいいのか。いかに租税が強い国家権力の発動だとしても、法定すれば(経済的自由権であるが)自由権を容易く制限できるのか。

 

東日本大震災復興税は(その使途に疑問が残ることは別として、)特定の地域の復興促進という社会的な目的をもって設定されたが、現代日本人にとって未曾有の大災害であったし、所得税に上乗せして課税されたとしても、すべての財産が没収されるわけではなく、納税しなかったとしても税の追徴と犯罪になるだけだった(だけ、というのも語弊はあるが…)。

しかし観光促進税は観光の活性化による経済の促進という目的をもっていて、財産権の侵害の程度こそ微小だが、納税しないことによって出国の自由はゼロになってしまう。

 

 

 納税の権利を自分から放棄したのだからそれによって被る不利益は仕方がないか?

 

この問題を考えるには、納税の権利に具体的にどのような権利性があるのかを検討する必要があるだろう。

人は(歴史的に見れば兵役の免除や選挙権や市民権の獲得など)一定の権利を獲得することを目的として、言い換えれば個人として尊重されることを願って金銭を国家に支払う意思をもつ。その期待の実現を保障するために権利として認めるものと解するべきだろう。

通常、我が国の見解では、租税は「反対給付なく個人から国家へ金銭の移転する権力発動の効果」との見方が強いが、この解釈は租税の歴史からすれば誤っている可能性がある。人は間違いなく反対給付を期待するからこそ納税の義務に服している。そして個別的でなくとも財政を通じて、社会循環して得られる何らかの公的給付が租税の合憲性を裏付けるものなのだ。

つまり租税で得た予算によって実現される社会的利益に対する期待がなければ、その合憲性の疑いが高まり人々は納税に抵抗する。それでも30条によって納税義務を履行させようとするときには、国家と国民の権力の均衡を保つために相対的に納税の権利が拡張されうる。つまり、租税によって得た金銭が財政を通じて社会利益を生み出さない又は社会利益は発生しているがこれを納税者が受けることを期待できない場合には納税しないことも許されるという権利に転じる、とすることはできないか。

そして、租税の合憲性は、租税により制限される権利の種類や程度が制限されないことによる利益と納税者個人レベルでの社会的利益享受(反対給付)の期待可能性を比較して考量するべきだろう。

このように解したとき、歳出使途を制限しない一般税については財政の効果によって金銭の同一性が切断され、そのような比較衡量は意味をなさないし、現実問題として反対給付の可能性要素の程度を認定、確定できない。しかし一方で目的税は、歳入と歳出で金額の同一性が保持されるので、その使途の効果を一定程度認定することはできる。

 

 観光促進税はその名前の通り目的税であろうから以上の議論が当てはまり、納税をしないのは権利の放棄ではなく、拡張権利の行使に当たる。

そして拡張権利の行使が正当であるか否かの判断にあたっては「財産権及び出国の自由」と「当該税を通じた観光の活性化の利益」について考量する。(ここで、後者の要素に「出国の自由の制限の解除」という利益が含まれないのは、その利益は通常の納税の権利によって得られる反対給付の範疇にあり、拡張権利を認めるか否かを議論することからは排除されるためだ。)

さて、税の政策運用の利益享受可能性に比して、たかが1000円の出国の自由制限を軽いと見るか重いと見るか…。

 

あと、何と何を考量するかはもうすこし練らないとダメだな