テンポラリー

そのときに思いついたことの備忘録。租税について考えることが多い

支持率調査を報道することは憲法で保障されているか

ネットでよく揶揄されているが、安倍総理は答弁ができないときにいつも支持率で自分を正当化するか、質問相手を貶める。

そもそも支持率なんて調査・報道しなければいいのではないかと思う。

でも世論調査表現の自由報道の自由で認められてるし、マスコミ等にやめさせるわけにはいかないんじゃないかと。。。。

そこで下記検討。

 

 

報道の自由憲法上保障されている。

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博多駅テレビフィルム提出命令事件(最大決昭44.11.26)
報道機関の報道は、民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の「知る権利」に奉仕するものである。したがって、思想の表明の自由とならんで、事実の報道の自由は、表現の自由を規定した憲法21条の保障のもとにあることはいうまでもない。
報道機関の報道が正しい内容を持つためには、報道の自由とともに、報道のための取材の自由も、憲法21条の精神に照らし、十分尊重に値する。

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・この判例からすれば内閣支持率政党支持率等の世論調査も取材の自由、報道の自由として保障されるものと解するのが普通だろう。
・しかし、上記判例は、報道される事実が必ず国政に関与するための重要な判断の資料に資するか否か、また判断資料とされない事実がある場合、その事実を報道することが報道の自由として認められるか否かまでは検討していない。
・たとえ事実の報道だとしても、他の事実と競合し、人を惑わせることがある。例えば国政政党の支持率と得票率はどちらも国政政党に対する信託について調査したものだが、その結果に違いが現れる。このため具体的な検討が必要と考えられる。
・選挙における被選挙者および政党の得票率は、直接選挙の結果を示すものであり、国民の政治参加を省みるための重要な資料と言える一方、内閣支持率政党支持率はどうだろうか。
・これらについて、選挙期間にない期間における政治の過程を評価した一指標という事実であり、国政判断資料として採用されるべきとの意見がある。
・報道を受ける国民の側にとっては、支持率調査という指標は、憲法上、国民の判断に奉仕する取材の自由及び報道の自由の行使主体であるマスメディアがその使命に基づいて発したものであるから、支持率は国政判断資料として利用すべき事実と推定する。
・この結果、国民が支持率を国政参加の判断資料とする場合は現在の国政の正当性の指標として利用することになる(みんなが支持してるから正しい)。支持率調査の「国民が支持しているかどうか」という単なる観点では、調査の対象となっている内閣、政党の行いが正しいか否かを判断するものではない以上、そのようなことになる。
・しかし実際には、内閣が国民の圧倒的多数に支持されているからといって内閣の政策が必ず全ての国民にとって利益がある(いわば「正しい政治である」)とする合理的理由はない。(本命題が裁判において真なるものとして採用されれば、少数意見支持政党の国会議員による国会質疑は意味をなさない。)
・このことから、支持率はその性質上、それを報道することによって、国民主権の観点から本来的に重視されるべき「現在の国政が真に国民生活に資するものであるか否か」の判断を極めて困難にする。また、支持率がおよそ明確で印象に残りやすい「数値」の形で表現されていること、被雇用者の労働時間の長時間化、国家施策一つ一つの複雑性の深化等の社会状況に鑑みれば、いくらインターネットで情報が公開されているとしても国民が自身で国家施策の国民に寄与するものであるかどうかを判断することは難しく、支持率という事実に頼らざるをえないためにその害悪性は高まっている。
・また国会議員日本国籍を有するものである以上、国会議員および総理大臣および国務大臣も支持率を国政参加の資料とする。国政の正当性の指標として受け取られ得、それはそのまま自己の政策や提案を正当化し、そのことのみによって反対意見を排除する恐れがあり、この点からも弊害があることを見逃してはいけない。
・事実が国民が国政に関与する際の判断資料になるか否かは、①当該事実が国政が国民または自身の生活に寄与するか否かを判断するものとして利用する合理的関連性を持つものか、②当該事実がその表現方法や国民を取り巻く社会環境と相まって他の事実を圧倒し他事実を取得・検証することを困難にするものか、③当該事実がそれが立法過程、行政作用の段階においてその地位に与えられている権能を実質的に機能させなくなるものか、考慮し、どれも満たさない場合には判断資料にならないものとして決せられるべきだろう。
・以上国政における内閣および政党について検証したが、都道府県知事および都道府県議会の議員及び政党、市町村長および市町村議会の議員及び政党でも同様だろうか。この点、②、③については国政における問題と同様の問題があるものの、①については地方公共団体には住民自治の観点から条例の制定・改廃請求や議会解散請求、議員・知事の解職請求といった直接請求の制度が整っており、支持率報道が与える現時点において住民にどの程度支持されているかという事実は、それによって直接請求の実現可能性を探る手がかりとなるため、住民及び自身の生活に寄与するものとして利用する合理的関連性を有する。このように解すれば、住民の政治参加の判断資料として採用することが可能となる。
・個別の政策における世論調査はどうか。①、②について、国民は個別の政策について随時国政に関与できる制度を持っていないため問題とならない。③については、当該施策に対する支持率が低い場合には、国会議員が国民の知る権利を確保するために議案提出者に対して議案の内容を深めることを要請しうる資料となり、その権能を弱めるものではない。このように解すれば、国民の政治参加の判断資料として採用することが可能となる。
・以上指摘したように事実が必ず国民の政治参加の判断資料とならない可能性は多いにあるが、判断資料とならない事実についても報道する自由が認められるかについては、博多駅テレビフィルム事件の判例に立ち返り、自己統治を実現する知る権利に奉仕しないのだから、憲法上保障されているとは言い難いと思う。