テンポラリー

そのときに思いついたことの備忘録。租税について考えることが多い

貨幣生来債務支払説

ロックの統治論を読み直したけど、国家のない自然状態での「人間が平等に作られているがゆえに自然の法が存在する」という考え方は、(なぜ人が生来的に固有の権利すなわち自然権を持っているのかということの答えにも繋がるのだろうけど、)なんだか今ひとつもの足りない。それに、ところどころにある「創造主がつくりたもうた人間が〜」というような記述が、社会契約説が果たして西欧以外の世界にも適合するのかどうかを曖昧にしているような気がする。
統治論の最後は、国家が国民からの信託に背いた時、国民は抵抗権を用いて国民に福利をもたらす新たな政府を選ぶことができるとしているのだけど、前段の論拠のもの足りなさが、抵抗権を昇華できていない感がある。

人は生まれながらにして自然権利だけを持って生まれてくるのではなくて、債務を負っている(生の債務)という研究がある。生の債務弁済を可能とするものが貨幣による支払だとする。僕が最近読んだ「貨幣主権論」では、支払いの原型をインド・ヴェーダ社会で供犠によって神の恩恵を受け、その儀式の対価としてバラモン僧に支払われる「牝牛」に求めている。その支払いがなければ、人は神前から俗世に戻ってくることができず、バラモン僧をも危険な状態に置くことになるという。

ただ、これでは生の債務をイメージできない。僕の解釈では、支払いの更に始原的なプロットは出生そのものだと考える。貨幣は生殖を、支払は出生をそれぞれ象徴するものだと。妊娠を供儀に擬えみると、母体を通じて外界からの栄養(供物)によって身体を形成するが、出生という支払行為がなければ母体を危険な状態に置くことになる。出生を通じて、母は妊娠という儀式から解き放たれる。生まれたからには、世界という胎を通じて供物を摂取(栄養)し、そのことについて債務を負い、支払いをする。したがって、ラーメン屋でラーメンを食べ、その代金をラーメン屋のおやじに支払うのは、おやじと僕の2人の関係ではなく、世界と僕の壮大な関係だということだ。

生の債務によって、自然権をより肯定することができる。この特殊な債務の存在を考えることで、「世界あっての自分」、「先祖あっての自分」というように個人と世界に絆と責任を見出すことができる。祖先との絆を認めることによって土地などの不動産所有は自然権的に認められたし、古代には処分できないとされて祖先に対する責任の楔だった。ローマでは土地所有によってケンススが実施され、税が課せられた。

生来持って生まれる権利ルールが法律で、債務ルールが貨幣であり、相互に関係しあっているとすれば、古代ギリシャ語において法律と貨幣がノミスマという一つの後で表されることにも合点がいく。

さて、ロックやモンテスキュー三権分立を説いたけれども、それだけで国家権力の制限は完成されたといえるのか。非常に曖昧な、しかし厳格に運用されている生の債務ルール・貨幣主権の理解をより深めれば、国家がもっている課税権力の減殺とか、国家施策の改善とかの実現に繋がると僕は思う。たとえば生活保護を申請しようと思っても、代々守ってきた畑を持っていれば却下されることが多いが、上述の生の債務論からすれば、こんな運用は祖先・世界との紐帯を国家が破壊することであり、ひいては人類の社会機能そのものを傷つける。

まぁ、時間はかかるけど、そういうふうに抵抗権の拡大をしていって、少しずつ、新しい国家のフレームを考えていかないといけない。今はそんな時代。財政学こそ人の生き様。