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テンポラリー

そのときに思いついたことの備忘録。租税について考えることが多い

租税裁判所

憲法30条「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。」という条文。日本国憲法審議録を見ると、この条文がくわえられた経緯は、国民が税金を納めるのは当然である、あたらしい憲法案には国の責務がいろいろとかかれていてアンバランスだから、この際納税について記載をし、全体としてのバランスをとろう、ということらしい。

この30条の文言から読み取れるのは、法律で決まったとおりに納税をする義務が国民に課せられたということで、国会での提案者も単にこの事しか意図していないと思う。そうだけれど、国家・租税の成り立ちを考えると、この条文にさらなる意義を見出すことができそうだ。
1つめは、上記の裏返しになるけど、法律で定めなければ徴税できないということ。そして2つめは、(僕だけの考えだが、)30条というのは税というかたちでしか国民の義務を規定していない、つまり税金以外の方法で国の施策や、国家施策への貢献は求められないということ。この2つめの意味が、これからどんどん重要性を増してくるように僕は思う。
自民党憲法草案などをみると、新しい24条で、「家族は助け合わなければならない」という条文が追加されている。社会保障的な財政出動を、家族の扶養義務では対応しきれないときに限定的に行われるものとしようとしているのは明らか。しかも日本は国債残高がべらぼうに高いために、社会保障のあり方をそんなふうに変えてしまうことは国家財政担当者の目には非常に魅力的にみえるだろう。しかし、国民の側ではこれがどんなに大変なことか。
 
こんなことにならないように、憲法30条から扶養義務は違憲であるというようなことを指摘できないかと、いつもおもう。そして、もっといえば、租税の他にそのような非金銭的負担を国民に課していることを前提とする租税精度の全体を棄却して、個人個人が租税を拒否する権利を設定できないかと。
 
たしかに、私達が民主的ルールに基づいて選出した議会には予算議決権や租税拒否権があるのだけど、それとは別に、個人がもつ当然の権利として、こういった租税叛乱権みたいなものを発見できたらいい。選挙のたびに1票の格差は違憲状態という判断がくだされるほどにねじ曲がった選挙制度では、国民が参政権を正しく行使することはできないのだから、個別的叛乱として租税を拒否するということができてもいいとおもう。まだ確信は持てないけど、きっとそれはありうる権利だとおもう。
 
これは国民にとっては魅力的だけど、為政者の方は困るし、さらには様々な主体の共同たる国家の崩壊を招いてしまうかもしれない。財源がなければなにもできない。国民の側の言い値で租税がすべて拒否されるようでは、国の滅亡の日も近いということになる。
そうならないように、どういったケースで租税が拒否できるのかということを判定する機会が必要になる。租税裁判所、と仮によぼう。「立法、行政、司法のそれぞれの行う施策や判断が、租税に応じるに足りるものになっていない」と思う個人が租税裁判所に提訴する。裁判所は政策等が憲法に合致しているのかどうかを判断し、また個人の置かれている事情をも勘案し、当人が租税に叛乱する権利を行使するに値するか否か、またどのような叛乱を認めるかを裁判する。
 
この、租税叛乱権と租税裁判所を正当化する仮説も考えてみた。
(1)租税に応じることも政治参加の一形態であると考えられるなら、租税叛乱権は参政権的な側面を持つことになる。普通の選挙権は行使しないという消極的意思表示を行うことが出来る一方で、租税という形の政治参加の場面では租税に応じないという消極的意思表示は制度不全である、という点。
(2)租税裁判所の審判基準を国民の共通理念である憲法とすることによって、租税叛乱のために訴え出ようとする個人は憲法を学ぶことになる結果、憲法をさらに尊重できるようになる。
 
逆に、問題となるのは、要は国の施策が憲法にかなっているか否か≒違憲判断をするわけで、現行の司法と実質的な機能は変わらないということだろうか。それから、経済的な部分について、租税裁判所のような機関を作ったところで判定できることが可能なのかということ。それらを乗り越えたとして、租税叛乱権の行使を認めた時に、その判断がどれほどの社会へのインパクトになるのかもわからない。