テンポラリー

そのときに思いついたことの備忘録。租税について考えることが多い

貨幣による納税以外は認められないものなのか

納税者の権利とか、納税の権利について僕の他にも考えている人はいて、それは大いに励まされることであるけど、一つだけ気になっていることがあって、それがタイトルとつながる。

お金以外の納税の支払いがあるんじゃないかという視点で、つまりは「古来の租・調・庸みたいに、お金での納税の他に物品や夫役(賦役)といったものでも納税を認めてよろしいのではないか」という問題だ。

日本では(というか世界的にだとは思うが)まず貨幣による徴税があって、払わなければ(払えなければ)資産の差し押さえというかたちでお金か所有物を処分させられる。この点で、貨幣と物品という方法は現代でも見られる。

 

夫役はどうかというと、これは日本国憲法上国民の義務になっていない。帝国憲法から現行憲法への改正時の審議の中でも、30条(納税の義務)について「本条は国民に夫役を課す場合の根拠となるか?」という意味合いの質問に対し、金森徳次郎国務大臣は「夫役を課す根拠にはならないが、夫役を課すことを禁止するものでもない。奴隷拘束の禁止など、他の条項によって保障される人権との調整をしながら、別途法律制定の手続きによって夫役を課すことは可能」という趣旨の答弁をしている。

 

なぜ、我が国の憲法が、夫役を租税として認めていないのか、あるいは、夫役を租税として認めないことは自然権からくるものなのかは別途詳細な検討が必要になるが、ここでは、貨幣、物品による納税のみが国民の義務として課されていることを確認しておきたい。

そして憲法30条を義務であると同時に権利であることも認める立場(僕、ただし政策的に追加規定したものでなく自然権に由来することを重視する)からみた時は、「貨幣による納税の権利」、「物品による納税の権利」が認められるのみで、漠然とした抽象的な納税の権利を認めてそこから「夫役による納税の権利」を導き出すのは難しいと感じている。

 

出先なので詳しい検討はできないが、それは労働というものが、物品と違って貨幣で正しく計ることが出来ないということが根底にあるのだと思う。「労働力が賃金として評価されてるじゃないか!」ということとはちょっと違う視点だ。

つまり、応能的負担をさせるなら、まず個人がどれだけのパワーを持っているかを測定しないといけないけども、それができない。そして、細かな作業が得意な人がいれば体力仕事が得意な人もいて、その2人にどのように夫役を課せば平等であると言えるのか、全くわからない。そういう、租税平等原則とかが適用できないので、納税の権利の論理を展開することが困難だと思う。

北野裕久博士のことば

「租税法学に関心を持ってからほぼ30年になろうとしている。30年前の頃はむろん日本の租税法学はかげもかたちもなかった。当時、私が一番驚いたのは、日本の税制や税務行政が憲法秩序と無関係に構築されている点であった。加えて雑多な方法に基づく税制論や税務行政も憲法論・人権論と無関係に展開されていた。これは、ある意味ではおそろしいことのように若かった私にはおもわれたのであった。」
北野裕久博士のことば(三省堂憲法と税財政」(1983))

 

北野先生は納税者の権利論を展開した稀有な税財政法学者。

いじりといじめ

「いじり問題」について考えたい。
身近にいたイジられキャラに想いを馳せながら。

いじり/いじられの関係というのはゆくゆくは(早めに)人類社会から根絶されるべきだと思う。

私見だが、いじめといじりは下記↓のように区別できるのではなかろうか。


【いじめ(狭義)】
★定義:多数対一または一対一の関係において、本人らが何ら負担を負うことなく相手方に特定の「行為」を強要することで、相手方を自身の領域から積極的に排除するか服従させようとする行為。
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☆補足:強要した行為によりいかなる結果が生じたとしても、排除・服従の目的が達せられれば良い。


【いじめ(広義)】
★定義:狭義のいじめに加えて、相手方への暴行や傷害行為によって、相手方を自身の領域から積極的に排除するか服従させようとする行為。


【いじり】
★定義:それぞれに充分な信頼関係のない複数当事者間において、本人らが積極的な排除意思をもたないうちに相手方に特定の「結果の発生」を強要する行為。
★定義:「それぞれに充分な信頼関係のない」とは、本人らと相手方の間だけでなく、本人らの間にも信頼関係に差があることをいう。(理由:本人らの間には充分な信頼関係があるならば、本人らが相手方に強要する行為は、場を盛り上げるというような結果の発生を望むものというより、本人らのルールに従うという行為を要求するものだから、もはや狭義のいじめと評価できる。なお、場を盛り上げることは本人らの間で行われる信頼のあるいじりで実現できる。)
★定義:「積極的な排除意思をもたない」とは、①信頼関係構築意思をもっている、②自身の領域から排除する意図はないものの、これ以上の信頼関係構築も望んでいない(消極的排除意思)、の2つ。
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☆補足:強要した結果が実現されれば①信頼関係構築意思が持続し、実現されなければ②消極的排除意思に移行する。
☆補足:えてして、いじりでは信頼関係は構築されない。ゆえに本人らの内心は時間の経過によっても①から②へと移行していく。


【信頼のあるいじり】
★定義:本人らと相手方の間に充分な信頼関係があり、本人らが相手方に特定の行為または結果の発生を促す行為。
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☆補足:充分な信頼関係のもとであれば、消極的排除意思は発生しないため、結果が実現するに越したことはないが必ずしも結果の発生を求めるものではない。
☆補足:信頼のあるいじりはほとんど社会問題にならない。

 

・・・不十分な定義かもしれないが、このように文字にしてみると、いじめといじりは根本的に違うもので、いじりの延長線上にいじめがあるわけではないということが分かる。最後の最後までいじりの場合もあるし、いじりからいじめへ転化する場合もある、くらいに考えておいたほうがいいだろう。

場合によってはいじめに転化したほうが、被害を認定しやすいし、周りに相談しやすい、周りも介入しやすい、とも言えるかもしれない。
最後までいじり行為に終始する場合は、本人が「愛がある」とか言って加害の意思がないから、いじられる側は今自分がどういう立場なのかを自認しにくいし、周りにも相談しにくい。相談を受けた方も「それで周りの空気が温まるならいいんじゃないの」とか、安易な助言で終わってしまう可能性が高い。そして結果を要求される点でハードルが高く、いじめよりもはるかにたちが悪い。

ただ、上記のようにいじめといじりを区別したとしても、実際には強要されている行為とその結果は表裏一体のものであるし、いじめられる/いじられる相手方は本人らの内心を常に知ることが出来るわけではない。知ることが出来ない場合、強要されているものをどのように判別するかは、相手方がどのような効果を期待して強要に応じるかで決すれば良い。つまり本人らの内心を相手方がどのように認識したかということに尽きる。
「逆らったら殴られる、今後無視される」というような理由で応じるのであれば、いじめられていると認識しているし、「笑いを求められてる」とか「嫌われたくない」といった理由で応じるのであればいじられていると認識している。

そんなこんなで、教育者や大人、大学生たちはいじりをいじめの前段階と位置づけていじめ対策の中で処理するのではなく、全く別筋のスキームでいじり対策を考えないといけないと思う。
とはいっても、いじりの修正はかなり難しい。いじりは信頼関係のない中でなんとか互いに接点をもとうとする努力の表れではある。根本的には悪気はないのだ。しかも一時的に同じ空間、体験を共有することには成功してしまうから、双方ともそのことに喜びを感じ、いじりに依存してしまってそれ以外の方法での接点の持ち方を忘れてしまうようだ。
ほんとうの信頼関係が何によって生まれるかといえば、やはり互いに相手がどんな考え方をする人間なのかということを知ることによってしかなし得ない。しかし価値観を共有したいと思っていても、言うほど我々は自分のものの考え方を日常的に赤の他人に垂れ流すようなことはしない。それを解決するためには、どんな異端的な、公序良俗を害する発言でも絶対に否定せずマジレスする会のようなものを定期的に開催するしかないかもしれない。そこまでいかなくとも、他人と違う発言をすることを推奨しなければならない。
いじり対策のスキームはまたいつかきちんと検討したいと思う。

では、本人らと相手方でいじめといじりの認識が異なっている場合、どちらのスキームで対応するべきだろうか。
基本的に、誤想している相手方の理解を改めることからはじめて、本人らの主観に合わせた対策をすべきと考えられる。

【1】本人らはいじめている認識で、相手方はいじられているとの認識だった場合
本人らの相手方へ害悪を及ぼす意思は強く、また相手方は「結果の発生を求められている」と自らハードルを高く設定している。まず相手方に、本人らはどんな結果であっても構わず、相手方を貶めることが第一義的であることを説く。つまり「あなたはいじめられている」と宣告する。

【2】本人らはいじっている認識で、相手方はいじめられているとの認識だった場合
本人ら、相手方を同席させた上で、本人らには相手方を排除したり害を加える意思が無いことを代弁し、本人らに確認させる。そしていじりは虚無的な信頼関係しか構築しないのだから、本人らにいじり行為を中止させる。また、「本人らも相手方も仲良くする方法がわからないだけだ」ということを分析的に説明し、対話させる。

ざっとこんなところだろうか。

天皇教の国の憲法

 

現行憲法をみれば、日本という国の法源は一つが国民主権、もう一つが天皇という二元的なものになっていると感じる。より正確に言えば、法源国民主権だが、法の前提となる道徳や倫理の解釈を天皇に大きく依存していて、その結果として天皇法源になり得る。
憲法4条には国政に関する権限を有しないとは書かれているけれども、天皇の意思や態度の表明が国民に与える影響は非常に大きく、しかも理論に訴えるのでなく感情に訴えるものだから排除するのも難しい。

y=f(x)

x:国家が調整すべき事項(立法、司法、行政3権を発揮すべき事柄)
f(x):国権発動の適正な手続き(立法プロセス、適法な行政、司法判断)
y:国権発動の結果

とすると、天皇はxについて介入することは出来なくても、yそのものに言及することはできる。要は、天皇があらかじめ結果を提示して、それに適合するように理屈を考えるというということが許されているようだ。

もっとわかりやすく考えると、あみだくじを作って実施することに似ているかもしれない。

・あみだくじを作る人が立法
・あみだくじをなぞる人が行政
・作る、なぞるが正しいことをチェックする人が司法
・スタートからえられた結果がそのゴールでいいのかを考えて、作る/チェック役に問いかけをする人が国民
・国民の親が天皇(あみだくじ作り自体には関与しない)

例えはともかく。

国民はこれまで「天皇死ぬまで」にほとんど何も考えてこなかった。しかし、ひとたび今上陛下がお気持ちを表明するや否や、世論的にはそれにほとんど賛成する声が大きかった。事柄の性質上、「本人がそう言うなら…」という心情を抱くものではあったけど、殆どの人がなぜそうした方がいいのかを理論的に深く考えなかった。そしてあれよあれよという間に生前退位の特別法が成立するに至るとの結果を得た。

天皇が行うことのできる行為はどの程度まで許されるのかについては争いがある。憲法7条などに規定される国事行為と、純粋な私人たる私的行為の間に、象徴たる地位としての象徴行為として認めるべきだという象徴行為説がポピュラーらしい。この象徴行為は内閣のコントロールが及ぶ範囲であれば、憲法上は許す許さぬと書かれていなくても天皇が行うことのできる行為として認められるという。

しかし、そんなことを考える前に、天皇の地位は何によって保たれているかを検討してみたい。
天皇は戦前の国家神道の神であるし、それ以前も、神話上神の子孫という扱いになっている事実がある。
さすがに現代人で、天皇が本当に神だと思っている者はいないだろう。天皇が生物学的には普通のホモ・サピエンスであることは疑いようがない。しかし、憲法が個人を象徴としていることは、(あるいはその血筋は)やはり特殊な人間であるということを伺わせる。そしてそれは国政の権限をもたないが故に主に心の支えとして機能している。
僕は水俣出身だけど、水俣病犠牲者慰霊式に天皇陛下がいらっしゃって祈りを捧げられると、犠牲者はようやく死後に救済されたのではないかと思い入ってしまう。あるいは、君が代が国家であることも実権を持たない憲法上の天皇であれば全否定しなくても良いんじゃないかとか思ったりすることもある。
そんな感じで、日本人は国家神道とは訣別しているが、いまだに天皇がオーラというか、なにか神聖な力を有していると考えている。いわば天皇教だ。で、天皇という存在は神聖ニシテ侵スベカラズとはいかないが、神アニメとか神アイドルみたいな感じの意味の神以上には神ではある。天皇陛下の発言に注目が集まるのは日本人の多数が天皇教信者で、神の声を聴きたいからだといえる。
こういった事情に照らしてみれば、天皇は宗教的地位を併有しているわけで、この地位に基づいて種々の行為を行える(行っている)と考えたほうが妥当な結論がえられるんじゃなかろうか。これを準宗教行為説と名付けよう。準というのは、どうやら政府は国家神道を宗教とは位置づけていない、天皇教も宗教ではなく文化だと主張しそうだ、ということを強調するだけの意図だ。

象徴行為説にたいして「象徴に積極的な意味を与えることになる」という批判があるようだが、とある宗教の神を象徴として位置づけてしまったことによる当然の反射的結果といえる。ただ、そう考えたとしても内閣の責任が不当に(憲法以上に)増してしまうことには免れたい。内閣の助言と承認はあくまで国事行為についてのみ必要とされるだけだ。
それに99条によって天皇にも憲法尊重擁護義務があるのに、行為が制限されるのであれば、その義務を果たすことが困難になるわけで、むしろ象徴であることに積極的な意味づけを行わなければバランスが取れない。そこで、準宗教行為として位置づけることを検討する余地がある。準宗教行為は憲法の趣旨に合致する範囲で、しかも内閣に責任を負わせることなく自由に行うことが出来るとすれば良い。

お気持ち表明なりなんなり、ガンガンおあそびなさったらいい。ツイッターとかインスタとかやってIT天皇とか言われればいい。そして国民に考えるきっかけを与えて、天皇の考えに反対すべきものは反対できるような関係の構築が必要だと思う。
その関係づくりが、憲法の趣旨にそぐわない行為が行われたときのその後の明暗を分けることになる。

この問題を考えると、基本的には違憲的発言はゆるされないが、例外的に
(1)憲法に合致しないが、教義に合致する行為の場合は20条の政教分離規定により許される余地がある。

そして、そう考えるとしても、やはり
(2)憲法に合致せず、教義にも合致しない行為はもはや宗教的地位に基く行為でなく、排除される。

というのがひとまずの着地点だろう。

ただ、(1)がかなり広い。国家神道には明白な教義がないといわれるし、天皇教は僕の造語だからますます怪しい。ただ、両方に共通するのは天皇そのものが神、道徳の創造者であると考える点だ。人には理解できないことでも人智を超えた神がやることはだいたいなんでもオッケーだ。

これまた極端な例だが、皇族が病気とかで男の子が生まれないどころか女の子も生まれない、本当に全く後継ぎが生まれなくてどうしようもないとか、いたけれども航空事故みたいなご不幸で居なくなってしまってどうしようもないとなったとき、いろいろ対応を考えないといけなくなる。どの程度の傍系親族までなら世襲といえるのか、皇族に限って一夫多妻制をみとめたらどうか、はたまたクローン人間はどうか…。モノによっては憲法的価値判断では到底解決が得られないだろう。

そんなとき、天皇が「多くの医学研究者の方々のご尽力によりクローン技術にたいし、国民の皆様からの信頼が集まっているのを日々感じております」などと、あの抑揚をおさえて意図的に機械的にされた口調でお気持ちを表明したらどうなるか。

脳を持たない臓器提供のみを目的としたヒト・クローンぐらいであれば、まだ個人として尊重すべき人ではないとか、合憲とする理屈はどうにかこねくり回せるとおもう。でも完全なヒト・クローンを作って、しかも憲法上人権が大きく制限される天皇候補として生み出すというのは完全にアウトだし、そもそもそれが憲法2条で必要とされる世襲要件をみたすのか?賛否が別れる問題で国民にはどうにも判断し得ないというか、否定派が多いだろう。しかし天皇がオーケーを出してしまえば、お気持ち表明行為自体を憲法問題として咎める人はそんなにいないし、多分そのように動いていってしまうんじゃないか。場合によっては、憲法の方を改正して世襲でなくとも良いとするかもしれない。現状、日本人(天皇教徒)はそれぐらい天皇を許容しているとおもわれるが、もっと自分たちで考えて答えを出すべきじゃないのか、こういうのは。だから、天皇と国民の意見交換ができる関係構築、訓練が必要なのだ。

(2)は、自ら天皇の宗教性を否定する行為などが挙げられよう。国会開会のおことばのなかで日本をキリスト教国家にしたいなどと発言することは許されない、というか、意味をなさない。国民の信教の自由を侵害する点で憲法に合致しないし、天皇の道徳想像者性を失わせるので、国民はその発言を容易に否定しうる。
ただ、「天皇も間違ったことを言うのだ」ということがはっきりわかるので、そういう意味ではそのような発言こそ信者の目を覚ますのには効果的ではあるけど。それがあえて憲法上否定されるというのが興味深い。もしこのような発言で天皇の地位が揺らぐことになれば、公金で皇室を維持していることの正当性が揺らいでしまう。違憲的反教義的行為が否定されるからこそ天皇制が正当なものとなり、日本人(天皇教徒)の天皇観によく合致している。日本国憲法はまさに日本人のための憲法だと感じる。

 

 

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ちょうど読売新聞社が↓のような調査を報じていたのでメモしておく。


 読売新聞社が8~10日に行った全国世論調査で、天皇陛下が2019年4月30日に退位し、5月1日に皇太子さまが即位することが決まったことを「よかった」と答えた人は91%に達した。

 「よくなかった」は3%。

 天皇の位を継げる皇族男子が減っていることについて、政府が対応を「急ぐべきだ」とした人は27%で、「慎重に検討すべきだ」が65%に上った。
退位を可能にする特例法の制定で与党と一部を除く野党が合意した今年3月の調査でも「急ぐべきだ」29%、「慎重に検討」64%で、大きな変化はなかった。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171211-00050088-yom-pol

政教分離と天皇教

政教分離とはなかなかむずかしい話だ。

日本国憲法でも20条に信教の自由が掲げられて、政教分離をすることになってはいる。

 

フランス革命がおこった時、カトリック教会はフランスの統治から一旦は締め出された(国家の宗教から国民の宗教という位置づけに変化した)ものの、紆余曲折あってその後1世紀弱の間も国家予算から教会の維持に当てられる資金が支払われていた(コンコルダ制度)。革命を起こし、自由を獲得した国でさえ紆余曲折を経ている。

 

日本は象徴天皇制を採っている。皇室典範は普通の法律と同じで民主的に改廃することが可能になっている点、天皇明治憲法の神聖にて侵すべからざる存在ではなくなった。

日本帝国では、国家神道というのはあくまで道徳のレベルであって宗教ではないからいいのだという言い方で国民に天皇崇拝を強要していたけれど、やっぱり宗教だとおもう。たしかに、神道自体は明確な教義を持たない、それゆえに大した道徳や法源を生み出さないゆえに、聖徳太子が大陸から仏教を輸入して、それによって統治をしてきた。でも、例えば外国の有名な「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」なんかは、スパゲッティ・モンスターがこの世を造ったということを信じるくらいで、そこから倫理とかが生まれてこないものの立派な宗教として扱われているわけで、そのことと比較して国家神道について考えると、人間を神として扱っているし、超自然的なものを崇めている、そして神を守るために道徳が規定されている…これを教義と言わないでおくのは無理があるように感じる。

さすれば、天皇は国家的機関ではないしなんの権力ももたないものの、やはり宗教的な存在であることは伺える。憲法が変わったからと言って宗教的ではなくなったというのは難しい。天皇天皇教の神様だ。それが憲法第1条に国民の象徴として決められているというのは、フランス憲法に「ローマ法王はフランス国民を表す」とか書かれているのと同じくらい不自然な感じがする。

 

そして現実的には天皇が国民を代表している面もあって、天皇の鶴の一声は国民世論に大きな影響を与える。今上天皇生前退位のお気持ち表明したのを否定する国民は少なかったと思う。「まぁ本人が言うんなら」とかそういう軽い気持ちかもしれないけど、実際にはそれによって法律の改正が必要だったり、特別措置法が作られたりしたのだから、権力が動くことになった。国民(天皇教徒)は天皇(神)のお言葉を心待ちにしている部分が大いにある。だから、どんな政治的立場でも天皇のお言葉とか、宮内庁付き記者の書いた記事なんかはついつい読んで、その天皇の意図を汲み取ろうとしてしまう。主権は自分たちにあると謳いながら、精神的には天皇にかなり依存している。

 

現状から考えると憲法3大原則で挙げられる国民主権というのは現状を反映していなくて、主権は国民と天皇に二元的に由来するとか、天皇から国民に主権が授権されたとか、そういう感じの言葉で表したほうが良いように思える。

 

日本は天皇教を国教とする宗教国家。今上陛下の人柄は好きだけどね。

でも税金で皇族費とか内廷費とかを出さなくても良いんじゃないかと思う。憲法からは除外して、税金じゃなくて、信仰熱い人がお布施をして、それで天皇という存在自体はずっと維持していけばいい。そうすれば、女性宮家がどうとか女系天皇がどうとか、そういうのは単なる宗教内部の統治問題だ。カトリックがどんな基準でローマ法王を選ぼうが勝手、創価学会幸福の科学がどのような基準で代表者を選ぼうが勝手というのが宗教に対する本来あるべき国家・国民の態度であって、今の状況、立法権を発動しなければ皇室典範を変えられないという方がよっぽど宗教に対する不当な制限に見えてくる。

徴税権行使義務の根拠(前回のつづき)

前回のつづき。

 

国が徴税権を持つとして、権利は行使することもしないことも許されるとするのは不都合だから、この恣意性を制限するために納税の権利を認めるべきだと思うのだが、これに対して「租税法律主義、租税平等原則によって、恣意性は排除され、徴税権は必ず行使しなければならないことになるから不都合は生じず、納税の権利を認める必要がない」と反論されそうだ。


法の下の平等に基づく租税平等原則では全ての任意性を排除できない

租税平等原則は憲法14条の法の下の平等に由来するものだと言われる。しかし、単純に、法の下の平等の徹底するがために徴税権を必ず行使しなければならないとするのは早計だ。

まず、租税を定める法律の内容そのものが平等なものであるかどうかという、法令違憲を考える段階での検討がされる。
次に、合憲性を伴った租税法を運用し、個別に適用することが平等であるかという適用違憲の検討が別途必要になってこよう。徴税権の行使不行使の正当性を考えることは、この段階での問題である。

憲法14条1項は、「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と定めているわけだが、差別しても良い例外をゆるすかどうかにはその要素によって若干の濃淡がある。人種や性別による差別はそのように差別しなければむしろ弱者を保護できず、他に手段もないような場合に限って許されるものであって、原則的にはほとんど絶対に許されない(厳格審査基準)が、社会的身分による差別は著しく不合理でなければ許される(厳格な合理性の基準)…こんな具合だ。

このような議論を徴税権を行使しないことについて考えると次のようになる。


【例1】同じ所得を有する男女について、性別の違いによって異なる税額を法律上設定することは、そうしなければ女性の地位を確保することが他の手段によっても不可能と考えられなければ、不当な差別であり許されない。また、性別の区別なく所得という基準のみで税を設定しているにもかかわらず、男であったから徴収し、女であったから徴収しなかった場合は性別によって差別しているので徴税権を行使しなかったことは平等主義的運用を逸脱する。

これは簡単だ。法令そのもの、適用段階のどちらについても例外を厳しく制限していることが分かるだろう。問題は身分による差別であるが、あえて徴税しないことが許される極めて特殊なケースであることを自覚の上、例を出してみる。


【例2】漁師が壇ノ浦で漁をしていたところ、平家物語の中で海に沈んだとされる草薙の剣を発見し、所有権を取得した。本物であることの鑑定を受け1000億円の値がついたが、漁師はその剣の国家的な位置づけを重視し、皇室に無償で献上することを表明し手続きをしていた。ところが、その協議の最中に不慮の事故で死亡してしまい、草薙の剣の所有権は息子に相続された。また息子も無償献上することを希望している。ところで、三種の神器皇室経済法7条における皇位に伴う由緒ある物であり、相続税法12条によって天皇から皇太子に相続するときは相続非課税となる、それは三種の神器がもはや値がつけられないか、値を付けたとしても天文学的な金額になるため、相続税の対象とすると皇室は破産してしまうためである。そこで、本件草薙の剣については1000年以上海に沈んでいた間、皇位とともに継承されてきた事実はないし、皇族ではない者の間での相続で皇室経済法の適用は受けないはずであるが、非課税の取扱いとし、徴税しなかった。


こんな事例は現実にはほとんど起こり得ないが、徴税権を行使しなかったことについて異議を唱える国民はいないだろう。無償で譲渡することがほとんど確定しているのに1000億円に対して課税されれば、逆に不合理である。
このように、相続税法の規定には逸脱するものの、むしろ徴税権を行使しないほうが天皇、国民という社会的地位の違いによらず平等であるということも考えられないわけではない。
あるいは、議論が分かれるだろうがこういう例もありうるかもしれない。

【例3】生活保護水準を下回る所得、資産しか有しないが、生活保護を申請していない者に対して、国民健康保険税を徴収しなかった。

生活保護受給者は国民健康保険の対象ではなくなる(医療は生活保護の中の医療扶助によって行われる)ので保険料を納めない。生活保護を申請していない者は国民健康保険の対象ではある。しかし、生活保護で保障される健康で文化的な最低限度の生活を維持するに足りない経済事情に置かれているにもかかわらず、例外を認めず国民健康保険税を必ず徴収することが、真に平等であるか。

 

上記のように徴税権を行使しないことが半ば温情とか一般人の感覚としては馴染むものだったとしても、ここで僕が問題にしている「憲法14条が租税平等原則(そして徴税権行使義務)の根拠になりうるか」ということになると、14条からは、「いかなる事情があっても徴税権を必ず行使しなければならない」とすることは出来ない。


■納税の権利が認められず、平等原則の例外に該当し義務を履行出来ない場合の議論(抵抗権)

と、すると、何かしらの合理的な理由をもって観光促進税について徴税権を行使しないことが許され得る場合があることも否定できず、その結果として出国できない場合がある。
しかも裁判でもその違法性がみとめられなかった場合には、いよいよ抵抗権を行使するしかないということになる。

憲法秩序が破壊された場合に国民が実力をもってその回復を測る権利を意味するいわゆる抵抗権の規定は憲法の明文には存しないが、憲法12条が基本的人権を不断の努力によって保持する責務を国民に課しているのはその趣旨の現れであると解せないでもない。

憲法12条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」と規定している。

もし徴税権の不行使が容認され、納税の権利が憲法上保障されてないとするなら、憲法12条を根拠に抵抗権を行使することはできない。不断の努力で保持しなければならないものはあくまで権利であって義務ではないし、12条は義務についても保持義務があるとする趣旨と解するか、あるいは12条の規定にかかわらず抵抗権を検討するとしても、義務を守るために抵抗するというのも不自然極まりない。

また、出国の自由という権利を保持することの延長として納税の義務を履行する機会を要求するという考え方もできなくはないが、「税金なんかとらずに自由に出国させろ」と、「出国するために税金をちゃんと受け取れ」では随分意味合いが変わってくるし、後者の要求ははっきりいって出国の自由の一部を自ら放棄していて、勝負する前から負けている。そして観光促進税以外の税における徴税権の不行使についてはこのように別の権利から「税金をちゃんと受け取れ」という要求を導き出すことが出来ない。

 

■解決法と帰結

で、あれば、私たちは国家を形成した段階で納税の権利というものをもっていると考えるのが自然だし、抵抗権では義務を確保することが出来ない以上そうしなければいけない必要性がある。我が国の憲法上は、30条「納税の義務」にその趣旨が含まれていると解釈すべきだ。そして、租税平等原則の根拠を納税の権利に求めることによって、国家には徴税権の行使を絶対的義務と位置づけ、その恣意性を一切排除する(上記の事例による例外を一切認めない)。その上で別の権利や平等の観点から問題があると認められるときには納税義務者の側から異議を唱えるべしという関係が望ましい。
徴税権を自分から行使しなかったのではなく、納税を拒否された結果として徴税できなかったという形であれば、必ずしも国家自らが平等原則を破ったとは批判されないという算段だ。

さて、これまで見てきたように、徴税権の行使義務の根拠を「A.法の下の平等に求める立場」と「B.納税の権利に求める立場」がある。観光促進税をそれぞれの立場を運用するにあたってどのような違いが出るか、一つ例を出してみよう。

 

【例4】犯罪の嫌疑をかけられている容疑者が国外逃亡を企てた場合、課税当局が犯罪容疑者であることを知りつつ観光促進税を徴収したが、出国審査当局も容疑者であることを知っていたため、出国は認められなかった。

A.(法の下の平等の立場)たとえ容疑者という身分であっても出国の自由があると評価しているために徴税権を行使している一方、出国審査においては容疑者であることを理由に出国を認められていない。これは国家の意思が矛盾しており、徴税権を行使したことの合憲性に疑問が残る。つまり観光促進税の返金が必要か否かという問題がある。

B.(納税の権利の立場)たとえ容疑者であっても納税行為そのものを課税当局自ら制限することは許されないから、徴税しなければならない。出国審査の結果、出国できなかったとしても徴税したことは納税の権利を保障した結果にすぎないのであって合憲的である。ゆえに観光促進税の返金は不要である。

観光促進税に見る納税の権利の必要性


出国時1000円の観光促進税 再来年4月で調整

来年度の税制改正を議論している自民党税制調査会は、日本を出国する際に1人当たり1000円を徴収する「観光促進税」について、2019年4月から徴収を始める方向で調整を進めることになりました。
政府・自民党は、来年度の税制改正で、観光分野の政策に充てる財源を確保するため、日本を出国する際に1人当たり1000円を徴収する「観光促進税」を導入する方針です。

これについて、30日に開かれた自民党税制調査会の会合で、国土交通省が「観光促進税」の徴収を2019年4月から始めたいという考えを示したのに対し、出席者から異論は出されず、再来年4月から導入する方向で調整を進めることになりました。
また、およそ5兆円の地方消費税都道府県への配分についても意見が交わされ、「東京などの大都市に偏った配分になっている」などと早急な見直しを求める意見が相次ぐ一方、都市部選出の議員から「東京都などの理解を得るべきだ」といった慎重な対応を求める意見も出され、引き続き調整することになりました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171130/k10011241221000.html?utm_int=news-new_contents_list-items_008

 

 

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いよいよ、納税は義務である前に権利であるということを議論しなければいけないと思う。

憲法22条により、居住移転の自由は認められている現状、出国するにあたって経済的な負担が必要になる。

 

これについて、憲法30条により国民には納税の義務があるから、その義務を履行しないものは当然に出国の自由という権利を行使できないのか。本条は税を徴収する側(国家)の権利義務関係についてはなにも規定していない。(ただ、84条にて租税法律主義を規定するのみだ。)

そうだとすると、仮に出国を許したくないときに、観光促進税を支払うことを国家が拒否することができるとも解釈できる。この場合、個人の出国の希望に関わらず出国することは不可能であり、移転の自由は制限されうる。

 

しかし、以下のような不都合が発生する。

おそらく、観光出国税の条文は「出国を希望するものは、出国のときに1000円を納めなければならない」というような趣旨の文言になるはずだが、納税の機会が、国家の納税拒否によって奪われるということになると、納税の義務があるのにその義務を果たすことができないということになり、妥当でない。

 

ここから、納税は義務である前に権利であることが窺い知れる(同時に国家の側に納税を拒否しない義務)。ただし、観光促進税として法定された後、出国の際に当該税を納めないものはやはり出国できない。

 

しかしそれでいいのか。いかに租税が強い国家権力の発動だとしても、法定すれば(経済的自由権であるが)自由権を容易く制限できるのか。

 

東日本大震災復興税は(その使途に疑問が残ることは別として、)特定の地域の復興促進という社会的な目的をもって設定されたが、現代日本人にとって未曾有の大災害であったし、所得税に上乗せして課税されたとしても、すべての財産が没収されるわけではなく、納税しなかったとしても税の追徴と犯罪になるだけだった(だけ、というのも語弊はあるが…)。

しかし観光促進税は観光の活性化による経済の促進という目的をもっていて、財産権の侵害の程度こそ微小だが、納税しないことによって出国の自由はゼロになってしまう。

 

 

 納税の権利を自分から放棄したのだからそれによって被る不利益は仕方がないか?

 

この問題を考えるには、納税の権利に具体的にどのような権利性があるのかを検討する必要があるだろう。

人は(歴史的に見れば兵役の免除や選挙権や市民権の獲得など)一定の権利を獲得することを目的として、言い換えれば個人として尊重されることを願って金銭を国家に支払う意思をもつ。その期待の実現を保障するために権利として認めるものと解するべきだろう。

通常、我が国の見解では、租税は「反対給付なく個人から国家へ金銭の移転する権力発動の効果」との見方が強いが、この解釈は租税の歴史からすれば誤っている可能性がある。人は間違いなく反対給付を期待するからこそ納税の義務に服している。そして個別的でなくとも財政を通じて、社会循環して得られる何らかの公的給付が租税の合憲性を裏付けるものなのだ。

つまり租税で得た予算によって実現される社会的利益に対する期待がなければ、その合憲性の疑いが高まり人々は納税に抵抗する。それでも30条によって納税義務を履行させようとするときには、国家と国民の権力の均衡を保つために相対的に納税の権利が拡張されうる。つまり、租税によって得た金銭が財政を通じて社会利益を生み出さない又は社会利益は発生しているがこれを納税者が受けることを期待できない場合には納税しないことも許されるという権利に転じる、とすることはできないか。

そして、租税の合憲性は、租税により制限される権利の種類や程度が制限されないことによる利益と納税者個人レベルでの社会的利益享受(反対給付)の期待可能性を比較して考量するべきだろう。

このように解したとき、歳出使途を制限しない一般税については財政の効果によって金銭の同一性が切断され、そのような比較衡量は意味をなさないし、現実問題として反対給付の可能性要素の程度を認定、確定できない。しかし一方で目的税は、歳入と歳出で金額の同一性が保持されるので、その使途の効果を一定程度認定することはできる。

 

 観光促進税はその名前の通り目的税であろうから以上の議論が当てはまり、納税をしないのは権利の放棄ではなく、拡張権利の行使に当たる。

そして拡張権利の行使が正当であるか否かの判断にあたっては「財産権及び出国の自由」と「当該税を通じた観光の活性化の利益」について考量する。(ここで、後者の要素に「出国の自由の制限の解除」という利益が含まれないのは、その利益は通常の納税の権利によって得られる反対給付の範疇にあり、拡張権利を認めるか否かを議論することからは排除されるためだ。)

さて、税の政策運用の利益享受可能性に比して、たかが1000円の出国の自由制限を軽いと見るか重いと見るか…。

 

あと、何と何を考量するかはもうすこし練らないとダメだな

 

税の喜びおじさん安倍

■税の喜びおじさん安倍

衆議院解散を表明した安倍首相が、テレビに出まくって「税こそ民主主義」とのたまったそうだ。
ざっくり言えば集められた税金は社会保障その他もろもろの国民の支え合い、連帯のために使われるものだから租税負担に応えてほしいということだろう。

そもそも、国が強制的に国民のふところに手を突っ込んで金を巻き上げることができるのはなぜなのか、根拠となる考え方に争いがある。

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・最初に現れたのが租税利益説。絶対王権を否定し、自由(財産権)を獲得するために、徴収されたものは、必ず国民に個別的に利益が戻ってくるような形でなければならないという個人主義を徹底した考え方。ただ、この説では「税金を納めなければ、それに見合った行政サービス等を受けられない」、「サービスを受ける必要性がないものは納税する必要がない」という解釈が可能で、当時の深刻な貧富の差を是正するサービスを設定するための根拠にならなかった。

・そこで次に主張されたのが租税義務説。格差が広がり東側で社会主義が擡頭しはじめたとき、その思想の西欧への伝播を食い止めるために労働者の権利といった社会権は一定的に資本主義にも適合しうるとしてドイツのワイマール憲法などに盛り込まれた。このように国家が人間が生きるための最低条件を提供する存在であれば、国民は当然に納税の義務を負うという考え方ができる。
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安倍首相の発言は後者の租税義務説を重視したものとみられる。しかし、義務説が必ずしも民主主義に直結するわけではない。租税は法律に則って運用されるものだが、「悪法も法なり」という言葉のように、その内容が不公平、不公正に議決されるものであれば民主主義は形式的なものでしかない。本当の意味で租税を民主主義的なものにするためには租税が(個人の人権を侵さないかどうかといった)内容や、成立までのプロセスの適正さを保ってなきゃいけないし、独立して司法部門が尊重されないといけない。

実際の税制はどうなっているだろうか。

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所得税は、高所得者は行政からの給付を欲さないといって、累進課税が弱められた(15段階→7段階)
法人税。道路や電波など、企業は個人より圧倒的に社会資本インフラを利用しているが、決算赤字であれば納税額はほとんどゼロにちかくなる。細かい節税のテクニックがたくさんある。しかし、公共財は使用量に従って納税額が変わるわけではないのでそのこと自体は批難できない。むしろ、法人は生命体ではないので生存にかかる行政からの給付を欲さず、租税はビジネスを阻害するものとして減税される傾向にあることに注目すべきだ。
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このように、我が国の租税観は根本的に利益説的な超個人主義にたったうえで、なお必要な支出のための財源を確保する必要がある。

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・消費税は、一つの財を購入するのに富めるものも貧しきものも同じ額を負担しなければならない。
・年金保険料は働いてなくても、一人あたりの保険料が発生する
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医療保険介護保険は保険料の納付額にかかわらず、受けられるサービスは一定である。しかし、下記のように保険料は増加している。

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国民健康保険料は、所得に応じた所得割保険料と基本料的な一人あたり保険料の混合体であるが、基本料の割合が増えており、低所得であっても支払わないといけない額が増加している。

・健康保険料(社会保険料)は基本部分は賃金(標準報酬月額)に応じた保険料設定だが、後期高齢者医療制度への支援金部分については健康保険組合の加入者一人あたりの基本支援金分と、報酬比例分の混合であった。しかし、この部分が近年、完全に報酬比例(全面総報酬割)になった。社会保険は労働者であって、国保加入者に比べれば高所得者なので、保険料はむしろ値上がりした。なお、健康保険料は介護保険への支援金制度もあり、こちらも2020年までに全面総報酬割が導入され、保険料は増加する見込み。

介護保険料は、全体の費用の半分は国は自治体が支出し、30%は他の社会保険制度からの支援金、残り20%は65歳以上の高齢者が給付を受けているか否かにかかわらず保険料を納付する。この割合は法令で定められており、高齢化社会で介護費用が増加する中で、必ず増加する。また、一人ひとりが支払うべき額は所得によって補整されるが、高所得者層に対する累進性があまりにも低い。「老人は金余り」などと言われることがあるが、そのターゲットからは十分な額を徴収しきれていない。
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たいへん細かったが、↑のような実態を見てみると、まず(1)行政サービスを欲さない個人や法人の納税責任を軽減し、(2)行政サービスを欲する通常の個人に対しては徹底的に義務を強調するという、二段階の構造になっていることがわかる。果たして現行の租税制度が民主主義的に公平公正といえるだろうか。
繰り返しになるけど、結局「税こそ民主主義」という言葉は、おおよそ個人の経済的事情では生命を維持することが困難な一般国民に対して、民主主義を口実に負担が重くても納税せよというお達しだろう。たとえ、租税が個人の生存権を脅かすとしても、だ。
納税の義務生存権の競合問題は、学問と学問の狭間に落ちてしまって、あまり議論のメインストリームになってきていない。これは僕がやるべきこと。

成人18歳、臨時国会提出へ

成人18歳、臨時国会提出へ  民法改正案、法相が検討

 上川陽子法相は4日の閣議後記者会見で、成人年齢を現行の20歳から18歳に引き下げる民法改正案について、今秋の臨時国会への提出を視野に検討していると明らかにした。
成立すれば、明治時代の民法制定以来続く大人の定義が変わる。改正案には、結婚できる年齢(婚姻適齢)を男女とも18歳以上に統一する規定も盛り込むとみられる。

 法務省は、今年の通常国会に改正案を提出する方針だったが、見送られていた。
会見で上川氏は「全力で取り組む。選挙権も18歳以上に引き下げられており、それに伴う義務と責任にどう対応していくべきか、トータルで考える必要がある」と述べた。

https://this.kiji.is/266046933024933372?c=39546741839462401


娘を大学にやっと入れたと思ったらすぐに振り袖のレンタル予約しないといけないのか。。。財布が大変だな
それに18歳を成人とすること自体は冷静に分析したいけど、選挙権でさえ義務と責任がどうこうって論じるのは違和感がある。
天賦人権論廃止したいんだなぁというのがひしひしと伝わってくる

資本主義=時間を守る

最近、色んな人と社会情勢の話をすると、「人間って根本的に雇われて働くことが得意ではないよね」という話にたどり着く。小学校の頃から時間を守ること等などを訓練させられるからそれなりにできてるように見えるだけなんじゃないか、と。

もちろん、組織をマネジメントするとかルールを徹底するとか、そういう社会的な能力を身につけられる人もいるけど、それは後天的なもので、すべての人間が生まれ持っているわけではないんだろう。

よく日本人は昔から勤勉だと言われるけど、明治維新直後の工業労働者はほんとに使えなかったらしい。そりゃそうだ、いままでやっていたのは割りと時間の裁量を自分で決められる農業や職人的モノ作りが中心で、時間にはそんなに縛られていなかったんだもの。その勤勉の質の転換をしたからこそ、富国強兵政策が動き出したし、戦後日本の経済発展にも繋がっている。

そう考えると資本主義的に発展するには何が何でも時間を守るということが必要だ。時間が決められていないと工場は動かせないし、デパートも営業できない、人も雇いづらい。でも、その資本主義に不可欠な要素が、人間にはあんまり合っていない。

この矛盾をどう解決するか。
1つは、全人類が社会能力(本源的に「時間を守る能力」)を完全に身につけることができるようなトレーニング方法を編み出して、資本主義体制に完全に適合する。ただ、これはとても難しい。すでに発達障害などの問題が大きく取り上げられるようになっているように、先天的なモノと社会能力がどうしても適合しないことは十分に考えられる。それを無理に適合させるということは個人の尊厳を大きく損ねることになる。加えてそんなことができるような科学力があるのなら、そういった管理はとっとと機械か人工知能に任せてしまう方がよっぽどコストパフォーマンスがいいはずだ。

もう1つは、雇われて働く以外のやり方(自営業など)への道を開く。個人事業主として届け出ていなくてもいくらかは経費(?)で落とせるくらいのインセンティブをつけるとか。
戦後日本では、被雇用者を増やすことによって所得税を確実に天引きして財政を安定化させ、一方で農業への機械導入等による余剰労働力を企業が吸収することで、ピッタリと歯車が噛み合っていた。しかしあまりにそのやり方に固執しすぎて、個人事業主とサラリーマンの税制に大きな隔たりがある。加えて、健康保険も社会保険国民健康保険、厚生年金と国民年金では負担度がかなり違う。もう少し歩み寄りがあってもいいのではないかと思う。

もう一つ、フレックスタイムとかホワイトカラーエグゼンプションについて書こうと思ったけど力尽きたのでやめる。