読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

供犠から貨幣へ

(貨幣主権論)

神(聖域)と人間の間に紐帯・同盟を結ぶと、人間の権利が出現する。

原始インドのテキストによれば「犠牲、それは人間である。人間は、犠牲に捧げられるべき筆頭のものである」とされている。人の生贄が神と人間の紐帯・同盟を【担保】するのだが、一度その犠牲によって人間の権利が発生したとすると、今後は人を簡単に生贄に捧げることができぬ。

このようにして倫理が発生する。この倫理が増す(法化する)ことによって供物の対象が人間から動物・植物、銀シケルへと変化し、ついには貨幣に成る。

貨幣の前段階の銀シケルは、寺院の聖域で作られ、材料の銀の取引は僧侶によって保証されていた。これを得ることによって牛を屠らずとも有効な供犠をうけることができる。

法と貨幣は宗教的に一体的に生じる。しかし同時に法・貨幣の出現は供犠の行為を省略することができるので原始社会を世俗化、非神聖化した。

ただし、世俗化した世界に存在(流通)する金属的象徴の有効性を認めるのは未だ司祭である。そういうわけで司祭が供犠祭壇の前だけでなく、俗世にも介入するようになってくる。神聖な儀式の中でこそ司祭には様々な機能があったものが、俗世の間にも神の意思を仲介して機能を発揮するようになった。司祭はかくて世俗に聖なる線を引き、さまざまな存在や関係を生み出すことができる王となる。

(つづく)

自然権上の納税義務、憲法上の納税義務の関係

3/30の「租税の平等原則について」
http://mrkm1814.hatenablog.com/entry/2017/03/30/060008
で考察したように、自然権上の納税の義務には平等原則が適用されないと解釈したとしても、日本国憲法30条は「国民は法律に定めるところにより、納税の義務を負ふ」としている。
 
①平等原則のない、まっさらな納税の義務がある。
②国民から選挙で選ばれた代表が、租税の立法を行う。この際、立法内容は平等原則に従う。
③国民は、憲法30条により、平等原則の枠内にある法律にしたがって納税義務を負う。
④同時に行政、司法も、この立法に違反しないようにこれを運用していく必要性がある。
 
◆ 論点1
まっさらな納税義務の本質は何か
・租税国家においては個人が持つ政治参加の権力である。
・「義務」とされているのは、主権が為政者には存していないことを常に否定し続ける意味において義務だということである。
・納税をしないことが必ずしも納税の義務に違反しているとはいえない。税を収めないことによって為政者が事業を行うことができないということが考えられうる。この場合でも、個人はやはり権力を行使しているといえるからである。
・なお、「租税法律主義」は、まっさらな納税義務にも付着している。構成員が2人しかいない国家で、ある共同の困難を解決するための事業に対して一人が60%負担し、他方が40%負担するとする場合、そこには必然的に契約が生まれるから。また一方が納税契約を拒否したときには、別の一方が全額を負担するという意味の契約が生じたと解すれば良い。全額を負担した一方は信頼関係に基づいて非貨幣的現象によって負担しなかった一方から何らかの利益を享受することも当然可能であるので、負担しなかった一方を絶対排除しなければならないものでもない。多人数を構成員とする国家において個人間に信頼関係がないとしても、財政を通じた公共財・サービスなどの非排他性があり、(納税しなかった者が昂揚財・サービスを利用することによって、彼らからも何らかの非貨幣的な社会利益を受けることができるという)外部経済性等により福利をえることが可能と推定されるので、租税法律主義はその国においても認められる。むしろ、納税をしなかった構成員から全くの福利を受けることが不可能と想定することのほうが難しい。
 
◆論点3
納税の義務憲法に明記したことの効果
・為政者が主権を持たないことを積極的に肯定した。(国民主権の再認)
租税法律主義を積極的に肯定した。
国民主権再認があったことを国は認識していない。憲法原案からこの憲法30条が衆議院において追加された経緯は次のとおりである。
日本自由党の北レイ吉(レイ:日へんに令)から「新たな憲法には権利のことばかりが書かれていて、偏った内容になっている。加えて他国の憲法には納税の義務があるとなっているから義務として盛り込んだほうが良いのではないか」と提案され、国務大臣金森徳次郎が「この義務が国民に存することは明白だが、基本的法制として最小限度に必要と認める」と応えたもの。
 ・基本的法制として必要とは、北議員によると「財産税をとることすら財産権の侵害で憲法違反だと言われかねない」ということであり、つまり課税を正当化するために明文化していなければ都合が悪いということである。
・このことから国は、法律に則った租税に国民が応じない場合には納税の義務に違反するとして違法性を指摘することができ、租税について権力を行使することができるとした。(義務の誤解)
 
◆論点4
欽定憲法では納税の義務はいかに解釈されるか
為政者から与えられる権利ではなく、固有の権力なので行使しうる。

◆論点5
まっさらな納税義務に平等原則の枠をはめられる根拠は何か
・平等原則は、個人間の信頼関係を無視し、没個性化・均質化を図る。これによって租税事務を簡略にして円滑に運用するとともに、一定の財源を確保する。
ローマ帝国のケンスス以来の歴史的な貨幣と法の理論に基づく。

◆論点6
平等原則は信頼の利益を排除するか
・排除する。納税者が納税しなかった者または自身より少額の納税者から享受できるものは外部経済性のみである。
・そもそも現実の国家の租税にあたり平等原則があるのは、個人間に信頼の利益の基礎となる信頼関係がないからである。
 
◆論点7
司法は立法を尊守しなければならないか。違法な立法とすることはできないのか。
・手続法の点においては違法を指摘することができるが、実体法の違法性(違憲性)は判断できないのではないか
・個人の財産に対してどの程度の課税額が許されるのかについては経済的・政策的技術により判断されうるものであるから、司法には判断能力がないのではないか。
 

不納税と抵抗権

敬文堂『税法・権力・納税者』(新井隆一,昭和45年)P85〜

 

【不納税と抵抗権】

 

◆最低限度の生活と納税の義務
いつものことながら、税制調査会の個人の所得課税の減税についての答申、その答申を尊重したという政府の減税案が、予算の編成から国会審議の過程で、しばしば、マス・コミの話題となることであるが、いつになっても、その減税は、納税者の体験的な満足もえられもしなければ、理論の上での満足もあたえられていないようである。
とりわけて、個人に対する課税が、全体として、憲法の保障している健康で文化的な最低限度の生活にまでくいこんでいるのではないか、ということになると、それは肯定されざるをえないことになるし、税制調査会や政府が、この問題を真剣に考えていることとは考えられえないのである。
個人が負担する所得税、住民税、固定資産税、などの額を合計し、これをその個人の所得の額から差し引いた、個人が本当の意味で生活を営むに費やせる金額が憲法が予定している健康で文化的な最低限度の生活を賄うに十分でないという状態が、制度化されていることは、否めないという現状のもとで、そのような憲法違反の課税に、納税者は、そのまま素直に従っていなければならないものであろうか。

◆最低限度の生活者の課税への抵抗
このような場合、違憲の税法による課税処分に対して、可能な限りのあらゆる合憲的な、あるいは合法的な制度上の手段を通じて、たとえば、裁判所による違憲審査の途をふんで、納税者が政府に非を認めさせるよう努力したり、あるいは、国会などにはたらきかけて、税法の文字通りの「改正」を要請したりすべきことはいうまでもないことであろう。
しかし、このような手段が、とりわけて、違憲審査の手段が、現在の事情のもとでは、その争いを起した納税者個人に多くの犠牲をはらわせることになるから、なかなか実行は困難というべきであるし、そのような争いを起さなければならない納税者は、まさに健康で文化的な最低限度の生活を営んでいない人たちであるから、争訟提起の経済的余裕さえないものである。
それに、申告納税の税にあっては、この争いはまず、申告をしない、ということからはじめなければならないのであるから、納税者にとっては、はなはだしく、勇気と決断の必要なことである。
民主的なといわれている申告納税の制度も、ここでは、納税者にとっての、重い足かせとなっているのである。

 

◆抵抗権は認められるか
このような場合には結局、少しでも、健康で文化的な生活の維持にちかづこうとすると、いかなる課税をされようと、申告をしようと、つまりは、納税できない、ということにならざるをえないのである。
そして、滞納ということの本来の意味は、納税が可能であるにかかわらず納税しない状態をいうのであるから、この納税不可能という状態は、滞納というよりも、もっと深刻な納税不能という事情であると言わなければならない。
基本的人源の尊重という憲法の基本秩序が国家権力によって侵害されているとき、これを阻止する制度上の一切の手段がつきた場合は、国民は、「抵抗権」を発動して、それを阻止することができる、と一般的にはいわれている。
そして、憲法12条の「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」というこの保持義務の背後には、この「抵抗権」を認めるという意味が含まれている、とも考えられている。
しかし、健康で文化的な最低限度の生活を、恒常的におびやかしている税制のもとで、しかもこれを制度上の手段では、はねのけるには、ほとんど困難ともいうべき事情が積み重なっているところで、なおかつ、その制度的な手段をすべてつくした後でなければ、「抵抗権」の行使ができないというのでは、この問題に関する限りでは、「抵抗権」の意味は、著しく減退させられるというものである。
「抵抗権」の理論がなお未熟ではあるし、その性質上、悪用・濫用されると、民主主義をかえって破壊することにもなりかねないから、きわめて慎重を要することではあるが、税制調査会や政府の怠慢が続くかぎり、それは、とりわけて検討されなければならない問題であるということにもならざるをえないであろう。

租税の平等原則について

租税の平等原則自体も、課税権力が権力ではないことの証左(任意に権力を行使しないことは許されない)とも言われるので、これを援用しながら何かうまいこと考える必要がある。

納税の義務≠課税権力として、国家が課税を下命すること自体には平等原則が働くが、国民側が納税をする場面では適用されないとすることはどうだろう。

租税の現代的な定義は「収入(財政需要=公的欲求)の目的をもって国又は地方公共団体が、一般国民(住民)に賦課する強制的金銭給付」であり、租税は特別の約無に対する反対給付の意義を持たない。


平等原則自体は何による要請なのかを考える。これは、直接的に関係性を持たない個人間について信頼がないために機械的に必要的負担を配分するということだろう。もし、国家の構成員が5人[*]ほどで、互いを良く知れる原始的な社会であれば、人は自信が共同的事業に対していくら支払うのかということ(負担の平等性)について厳格性を求めない。気心が知れているし、日常生活の中で相手方から(貨幣的であるか非貨幣的であるかを問わず)何かしらの恩恵(恩返し)を直接に受けることも期待できる。(特に、非貨幣的な見返りを期待できるということが重要だろう。)

[*]
①構成員が2人の場合・・・少数派は発生せず、2人の権力は均衡している。
②構成員が3人以上、かつ、個人間に信頼が充足している場合・・・少数派が発生し得る。少数派が多数派から批判されるとき、少数派は共同的事業に対する自信の供託割合に応じて貢献を主張する。(また、マイノリティの貢献度が全体の1%だったとしても、共同事業を行うには彼の出資を含めた満額がなければその事業を行うことは出来なかったと仮定する。仮定する必要があるかどうかも検証する必要性がある。)
この場合でも、信頼関係がある限り、批判を強めることはできない。信頼関係に基づいて少数派の非貨幣分野での貢献も期待できるから。

③構成員が3人以上、かつ、個人間に信頼が充足していない場合
基本的な部分では②と同様であるが、信頼がないために多数派は批判を強める。
多数派は、少数派の貢献度が低いと評価するための基準を持たなければいけない。そのために所得など、貨幣的基準に基づいて少数派を批難する。この時、同時に多数派自身もこの基準に準じる必要がある。こうして、構成員全員に適用される平等原則が発生しうる。

ここで重要なのはやはり、個人間に信頼関係が希薄な部分があるために平等原則が適用されるという関係だろう。もし人間がテレパシーを以って、コンピュータネットワークのようにすべての個人の情報を互いに瞬時に同期できるとしたら、③から②の状態に接近していくに違いない。

では③の状態[現実の国家]の中で、平等原則を排除することは難しいだろうか。否、それは間接的な非貨幣事象による恩恵を以って解決することができるだろう。少数派がいる社会を保持することによって恩恵を受けることは多い(外部経済性)。それに、法律に定めるところによって特定の義務を負うことで、結果としてその分野に対して(本来はより多額の金銭が必要であった)事業の予算が減殺し、財政循環によって巡り巡って、貨幣的にもそれぞれの個人に利益となることもある。生活保護法における扶養義務などがそれである。
このように本質的な部分では平等原則は実際的には不要かもしれない。現実には他に、事務的な効率性や正確性の担保といった事情もある。でもこれは課税する側による事情ではあるけれど、納税する側の事情ではない。もし、平等原則の存在がこの事情のみに寄るものだとすれば、この原則が適用されるのは国家が課税をするときのみであって、国民が納税をするときには及ばないと解することも可能となる。

租税の平等原則自体も、課税権力が権力ではないことの証左(任意に権力を行使しないことは許されない)とも言われるので、これを援用しながら何かうまいこと考える必要がある。

納税の義務≠課税権力として、国家が課税を下命すること自体には平等原則が働くが、国民側が納税をする場面では適用されないとすることはどうだろう。

租税の現代的な定義は「収入(財政需要=公的欲求)の目的をもって国又は地方公共団体が、一般国民(住民)に賦課する強制的金銭給付」であり、租税は特別の約無に対する反対給付の意義を持たない。


平等原則自体は何による要請なのかを考える。これは、直接的に関係性を持たない個人間について信頼がないために機械的に必要的負担を配分するということだろう。もし、国家の構成員が5人[*]ほどで、互いを良く知れる原始的な社会であれば、人は自信が共同的事業に対していくら支払うのかということ(負担の平等性)について厳格性を求めない。気心が知れているし、日常生活の中で相手方から(貨幣的であるか非貨幣的であるかを問わず)何かしらの恩恵(恩返し)を直接に受けることも期待できる。(特に、非貨幣的な見返りを期待できるということが重要だろう。)

[*]
①構成員が2人の場合・・・少数派は発生せず、2人の権力は均衡している。
②構成員が3人以上、かつ、個人間に信頼が充足している場合・・・少数派が発生し得る。少数派が多数派から批判されるとき、少数派は共同的事業に対する自信の供託割合に応じて貢献を主張する。(また、マイノリティの貢献度が全体の1%だったとしても、共同事業を行うには彼の出資を含めた満額がなければその事業を行うことは出来なかったと仮定する。仮定する必要があるかどうかも検証する必要性がある。)
この場合でも、信頼関係がある限り、批判を強めることはできない。信頼関係に基づいて少数派の非貨幣分野での貢献も期待できるから。

③構成員が3人以上、かつ、個人間に信頼が充足していない場合
基本的な部分では②と同様であるが、信頼がないために多数派は批判を強める。
多数派は、少数派の貢献度が低いと評価するための基準を持たなければいけない。そのために所得など、貨幣的基準に基づいて少数派を批難する。この時、同時に多数派自身もこの基準に準じる必要がある。こうして、構成員全員に適用される平等原則が発生しうる。

ここで重要なのはやはり、個人間に信頼関係が希薄な部分があるために平等原則が適用されるという関係だろう。もし人間がテレパシーを以って、コンピュータネットワークのようにすべての個人の情報を互いに瞬時に同期できるとしたら、③から②の状態に接近していくに違いない。

では③の状態[現実の国家]の中で、平等原則を排除することは難しいだろうか。否、それは間接的な非貨幣事象による恩恵を以って解決することができるだろう。少数派がいる社会を保持することによって恩恵を受けることは多い(外部経済性)。それに、法律に定めるところによって特定の義務を負うことで、結果としてその分野に対して(本来はより多額の金銭が必要であった)事業の予算が減殺し、財政循環によって巡り巡って、貨幣的にもそれぞれの個人に利益となることもある。生活保護法における扶養義務などがそれである。
このように本質的な部分では平等原則は実際的には不要かもしれない。現実には他に、事務的な効率性や正確性の担保といった事情もある。でもこれは課税する側による事情ではあるけれど、納税する側の事情ではない。もし、平等原則の存在がこの事情のみに寄るものだとすれば、この原則が適用されるのは国家が課税をするときのみであって、国民が納税をするときには及ばないと解することも可能となる。

介護保険のはなし

介護保険のはなし】
今国会上程の介護保険改正法案、現役並み所得者の自己負担を三割にまで引き上げることも問題だけど、医療保険介護保険への納付金の制度変更もひどい。

《引用》
http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/soumu/houritu/dl/193-06.pdf
==============================
○第2号被保険者(40~64歳)の保険料は、介護納付金として医療保険者に賦課しており、各医療保険者が加入者である第2号被保険者の負担すべき費用を一括納付している
○各医療保険者は、介護納付金を、2号被保険者である険間では。『報酬額に比例した負担』とする加入者数に応じて負担』。(激変緩和の観点から段階的に導入)しているが、これ【平成29年8を被用者保月分より実施】
==============================

《コメント》
つまりサラリーマンは所得に応じて、国保は所得によらず必要経費を均等に分担するということだけど、負担能力はもちろん国保加入者のほうが低いわけで、国保にこそ所得割を導入すべき。
サラリーマン側では負担増が1300万人、負担減が1700万人なので、負担増者が結構な額を肩代わりすることになってて不公平感の増幅は否めない。
介護保険法は公費の投入割合が厳格に決められてるので、財源があったとしても国民の負担増を公費で賄うことはしない冷酷な制度。
結果的に知らず知らずのうちに国民の間に対立を生み出すことは自明。一人ひとりの上がり幅が小さいからといって許されるものではない。その影響はミクロ視点でなくマクロ的に評価する必要がある。

歴史認識、経済政策その他で国民の世論が大きく二分されてるけれど、その多くはこの介護保険制度のように財政問題に起因していると思う。
これから、更に右と左が大きく別れて、お互いを信頼できなくなったらこんなに悲しいことはないね。

会話めも、課税権力の否定

課税権力を否定したところで基本的な構造は変わらないです代替となる新たな資金調達方法が国家に求められるわけじゃないですよ。なんてったって憲法30条で国民の納税の義務がちゃっかり明文化されてますから笑
問題は、納税の義務とその他の人権が衝突した場合です。この問題の解決方法として、今は国家の課税行為は権利・権力であるとしてこの権力を他の人権で抑制することは不可能だとされているので、税金は絶対払うべきものとされているということです。
おれ的には、税金は国家運営(政治)に必要不可欠な点で納税行為は一種の政治参加の表れだとおもうので、政治の動きに対して明らかに憲法に従っていないと認められる程度の相当な理由がある場合には、課税権力説を否定して、納税を拒否することも可能と考えるべきだと思います。これは参政権的側面を強調した根拠ですね。
ほかにも、権力=権利と解釈して課税を強制できるという理論は無理があるんですよ、だって、もし権利だったら、これは行使するもしないも権利保有者の自由だけれど、課税の局面でこの人には課税する、この人には課税しないなんて、公平性の原則から逸脱してありえない話ですからね。課税は権利であると同時に義務を要請するんですよ。これは新井隆一先生がそんなことを指摘していました。
他にも租税国家の成り立ちの経緯や貨幣原論とかの理論を積み重ねれば、行政側が根拠とする課税の権力性(国民側も信じ込まされているけれど)はほとんど否定できると思います。
もし、この理論が認められて、租税反乱が成功すれば、苦しい経済状況に置かれてる人たちをたくさん救い出せます。
安定した仕事だったけど、投げ出すだけの価値はあったと思います。

問題は、これをいかに現行の国家制度に組み込むかですよ。裁判所には判断できません。法を逸脱してる場合には判決できるけど、グレーゾーンの事案で納税拒否を認められるかどうかってことですからね。だいたい、裁判所も税金で運営されてるから、ステークホルダーが納税拒否を認める判決なんてかけるわけがない。まぁ、どんなにがんばっても違憲状態判決かつ無効判決ですね。
というわけで、名実ともに課税権力を国家から引き剥がすには、三権とはまた別の租税叛乱審理所が必要なんですよ。でも、どういう要件で、どの租税の額をどの程度の範囲で納税拒否を認めうるかはかなりシステマチックに組み立てないといけませんね。ここのところは応能負担原則と応益負担原則がミックスされて登場する複雑なところだし、この糸玉を解くにはきっとプラトンから読み解かないといけないだろうから骨も心も折れる作業になると思います。

つまるところ

つまるところ、国家がなくても、租税を観念することは可能であろう。