テンポラリー

そのときに思いついたことの備忘録。租税について考えることが多い

Mr.ゲイ・コンテストに難癖をつけるの巻

 

ショスタコーヴィチがプロポーズまでした鬼才溢るる弟子として、ウストヴォルスカヤという女性現代作曲家がいる。まず、彼女は遺したというこんな言葉を紹介したい。

『もし女性作曲家音楽祭のような演奏会があったとすればそれは屈辱以外の何物でもない』


=====続いて記事引用=====
世界一のゲイを決めるコンテスト「ミスター・ゲイ・ワールド」の日本代表エントリーが1月15日よりスタートした。
http://genxy-net.com/post_theme04/116418ll/

「ミスター・ゲイ・ワールド」とは、毎年世界中から各国代表が集い優勝者を決定する、世界最大のゲイ・コンテスト。
公式Facebookによると、日本代表の「ミスター・ゲイ・ジャパン」となれば、『日本のLGBTQの環境改善推進と同性婚の合法化』のメッセージを発信し、様々な活動を行うそうだ。

【応募条件】
・事務局指定のSNSアカウントの開設及び指導に基づく運用が可能な方
・積極的に活動に取り組める方
・撮影、イベント、日本代表選考会、及び、5月開催予定の世界大会への出場が可能な方
・交通費は自己負担
・未成年は保護者の同意書が必要


======続いて難癖=====

ミス○○とか、ミスター○○って、審査基準はたいてい曖昧だけど、個人が持つ魅力をいかに外見に体現しているかが要になっていると思う。

それからミス慶応とかミスター石川県とか、ある集団や帰属に限定するということもある。あるいは一つの応募要件では漠然としすぎているので、審査の基準のヒントとして今回のテーマとかが与えられることもある(例えばミス日本2018のテーマは「羽ばたく行動美人」)。

これらを加味すると、外見に体現されるべきものは、「自分自身の個性+α(その帰属社会での生活、テーマに合致した人格や経験によって得られたもの)」ということになるだろう。
こういうふうに考えるとミスターゲイコンテストでは、「自分自身の個性+セクシャルマイノリティとしての生活、ゲイという性指向によって得られたもの」というのが審査基準になってきそうだ。

でも、こんなに擁護してみたのに、他のコンテストの審査基準とさほど変わらないのに、それでも胡散臭さを拭えないのはなぜだろうか。
それは本当にLGBTQの環境改善に貢献するのかという点で疑問が残るからだと思う。

(1)もともとコンテストというのはものすごく閉鎖的なもので、クラスの中で誰が1番カッコイイか、クラブの中で誰が1番可愛いかということに端を発していて、グループ内で盛り上がるためというのが目的にあるように思う。
もっとも、LGBTの場合、内輪となる社会がまだ成熟していない、または存在はしているものの全ての該当者が包摂されている社会ではない。
コンテストがミスとミスターで別れるのは、芸術表現の優越を比べるときにピアノと油絵を一つのコンクールで争わせることが滅多にないのと同じ、仕方の無いことだと理解している。けれども、性指向で無理やり区切って1つの社会に見せかけたところで、優勝者を決めることにどんな意味があるのだろうか。
そして何よりLGBT社会の中に連帯が生まれていない。カミングアウトの問題以外で、全てのセクシャルマイノリティに共通する深刻な悩みがない。結婚しようと思っていないゲイが結婚したいゲイのために、子供に興味のないゲイが子供を持ちたいゲイのために何か活動をしているというのを、(不勉強かもしれないけど)あまり知らない。
そんなこんなでミスターゲイが選出されたとしても、ごく一部のゲイ社会の代表にしかならない。そこが1つの忌避感となっているのではないかと考える。

(2)そしてもう一つは、+αの基準というのがなるべく対象を明確化することと、公平を期すために添えられるものにすぎないということだ。「人の容姿の好みは千差万別だけど、このテーマだったらこの結果にもまぁ納得できますよね」といういいわけ、あくまで+αでしかなくて、それをグループ社会の外側にアピールするときに全面に押し出したところで影響力は小さい。それどころか、その社会の外部の人間としては受賞者を容姿の好みだけで判断するしかないので、人によってはその容姿が気に入らず、どんな正しい訴えでもその容姿まるごと拒絶されてしまう恐れさえある。

つまり↑の記事によるとミスター・ゲイ受賞者はかっこよくて、ゲイの自分をよく表現しているという理由だけで『日本のLGBTQの環境改善推進と同性婚の合法化』のメッセージを発信するという使命を負わされる運命にある。これはなかなか悲劇だし、熱のこもったアピールなんてできるわけがない。JGBTQの地位向上のためにコンテストを行うというアプローチに違和感を覚えざるを得ない。


だいたい、どうしてゲイだけがコンテストを開催するんだろう。
黒人が地位向上のためにミス黒人コンテストを開く、障害者団体がミスター障害者コンテストを開くとなったら、大抵の人は「これ、ヤバいコンテストなんじゃないのか?」って思うだろう。ウストヴォルスカヤに乗っかれば、自分達から進んで屈辱を受けようとしている状態だ。
ゲイ界隈には黒人たちや障害者たちのような連帯すら未発達だから、コンテストでゲイ社会の絆を深めるというんならうなずけるけど、そこに地位向上とかいう異質なファンクションを求めるのは違うと思う。お祭りはそのままお祭りにしておいて、地位向上については別に政策コンペでもやったほうがよっぽど有益なんじゃなかろうか。

検討しないといけないことは結構あると思う。1つは、同性婚を推進するだけでは片手落ちなのではないかということ。
結婚したいセクシャルマイノリティにとっては悲願だろうが、彼ら彼女らが結婚していってあとに残るのは結婚したくないセクシャルマイノリティだ。セクシャルマイノリティは本当に様々でLGBTで結婚したくない人もいるし、その他にAセクシャルとかノンセクシャルという人もいる。同性婚はこういう層にとっての重要課題ではない。LGBTの問題として同性婚はわかりやすい課題なのでワンフレーズアピールをしてしまいがちだが、さらなるマイノリティを生み出すことにつながりかねない。連帯を自ら断ち切ってしまっては無意味だ。
むしろ、LGBTその他のマイノリティだけでなく、ストレートとも積極的に連帯を築くことが重要ではないだろうか。
たとえば性的指向性自認にかかわらず、多くの婚姻状態にない者にとっては両親親戚からの結婚プレッシャーは大変嫌なものだ。LGBT団体が「結婚しなくても良い社会づくり」をリードしても良いんじゃないか。養子を取りやすくするとか、期限付き養子制度みたいなのを作ってみるとか皇室典範改正して養子オッケーにして社会世論変革を目論むとかやりようはある。自分たちだけの課題に閉じこもる必要はない。

それからもう一つは、同性婚をどこまで望んでいるのかということ。もちろん男女結婚と同じが究極の理想だけど、さしあたって結婚のどの部分は譲歩できるのかを考えてみて欲しい。たとえば制度面で配偶者控除がなくてもいいとか、田舎でも結婚式があげられるような風土づくりをしたいのか(親族の顔合わせですからね)とか。


以上、セクシャルマイノリティの活動実績などを無理解のまま難癖をつけた。この破格の無礼をお詫び申し上げる次第である。

株式納税は、国営化を目指すものか?

前々回(1/3)、物で収める税(現物財産税)として株式納税(株式課徴)を考えた。

国家権力による一方的に国民や法人が保有する株式を徴収することで、ゼロコストで株式を取得しインカムゲインを得るという算段だ。

これは財政難にあえぐ各国(特に日本)に対し、貨幣租税、公債に次ぐ新たな財源として検討してはどうかという個人的な提案だ。

株式課徴は租税の一種と考えられるが、ゆくゆくは企業活動によって得られる収益の割合が増加、租税国家を超克する。

岩波文庫(白147-4)の「租税国家の危機」(シュンペーター著)の解説を読み直してみると、そこにズルタンという人が租税国家、企業者国家、債務者国家なる語句を用いて、国家と経済の統合関係を説明したというようなことが書いてあった。ズルタン先生のその著書を読んだことがないのでわからないけど、語句の響きだけで考えると、株式課徴を行う国家は、企業者国家というところに分類されるのではないかと感じた。

 

それはさておき、株式課徴を他人に提案するときに、タイトルのことを気をつけなければいけない。株式課徴は将来的に国内の全企業の株式を100パーセント国が保有することを目指すのか。つまり、全部の株式会社が国営化されるのか。

この問題を考えるときの重要な観点の一つは、国家と国民の関係は本質的にどのようなものであるかということだ。これは古い問題だ。

マルクスのように、特権階級が労働者を支配するためのツールとして生まれたものと考えるのか、あるいは同氏の描く革命によってコントローラブルになった存在と考えるか、はたまたケインズのように全体の利益を考える中立的な存在として考えるのか…etc、ということだ。

残念ながら各人の思想を理解しきれていないので、僕はこの観点からの答えをまだ持ち合わせていない。

 

もう一つは株主と会社の関係だ。会社法はこれから勉強するので、これまた未だに答えを持っていない。

ただ、株主は有限責任なのは確かで、仮に株式会社が不法行為を行って膨大な損害賠償責任を負った場合、株主の責任は株式の範囲に限定されている。一方、国家は諸経済法によって各経済主体を監視する役割を担っている。そのような存在である国家が株式課徴の結果、一株式会社の大株主になっていた場合、監視者としての責任は、通常よりも大きいだろうということになる。そうすると、国家は実質的に株式の範囲以上の責任を負う可能性がある。この場合、株式の有限責任という意義は失われるのではないか?

国家の株式持ち分は経営の意思決定に参加できないことにするとか、特別の論理的手当が必要に思える。

そうでない限りは、国家が一株式会社の株式について課徴、保有できる数は、当該株式会社の発行済株式総数の10%以下というように制限を加えざるを得ないだろう。

フランツ・リストと社会主義

フランツ・リストが若い頃、サン・シモン主義に多大な影響を受けたという。
昔は軽く読み飛ばしていたが、リストの遺した作品たちがどのようにして生まれたかということについて思いを巡らせてみると、その思想が非常に重要であることがわかってきた。

インターネット上の投稿等によると、サン・シモン主義は、ユートピア社会主義、原始的社会主義、宗教的社会主義という評価を受けているようだ。社会主義という言葉に抵抗がある日本人は多いかもしれないが、経済学的な説明としては「人々が幸福になるためには自由を獲得し、富を生産することが重視する」、「また自由競争で人々の間に経済的格差が生じた時に、富を有するものが社会的貢献の使命を自覚して貧しきものに施しをすることで格差を修正し、社会全体の幸福を実現する」という話で、何かしらの不当な人権抑制を課すようなものではないようだ。
それはともかく、重要なのは、サン・シモン主義が実践されるときの宗教の役割で、貧しい者に施しをすることをキリスト教カトリック)の権威によって人々に啓示するということだ。

サンシモン主義の要約は↓がわかりやすい
http://www.y-history.net/appendix/wh1201-084.html

 

■サン・シモン主義はどうして生まれたのか。

それは政教分離という近代の自然権思想の理想と現実とのギャップをどのようにクリアしていくべきかを探る必要があったからだ。
サン・シモン主義はフランスで生まれた。旧制フランスはカトリックと相思相愛の国だった。カトリックが国の宗教であったので、教会の運営費は国家予算から支払われていた(司祭の給料など)。一方で各教会の人事権はローマ法王が握っていた。
しかし、革命の際にはフランス国内の宗教家たちが市民とともに絶対王政を倒す革命側に立って活動する例も多く見られた。市民革命以降、国家は人民のものになり、すべての財政を通じた活動について民主的なコントロールを及ぼすべし、という事になった。同時に、カトリックの地位は「国家の宗教」から「国民の宗教」となった。統治機構そのものが宗教的ルールに服するのではなく、あくまで権力の契機たる国民がそれぞれに信じるものでしかないということになった。近代国家黎明期、政教分離というのは非常に曖昧だっただったように思えるけど、この地位の変化は当時のフランス人の90%がカトリック教徒だったとしても、実に大きな変革だった。

論理的には次のようなことが言える。国民主権で物事を決めるのだから、教会人事もローマ法王ではなく国家が担うべきである、と。実際、当時の教会にはフランスに従うか、ローマ法王に従うかという決断を強いられ、大きく二分された。簡単に言えば前者教会には宗教上の栄えある身分が与えられ、後者教会はその資産を接収された。このために、市民とともに革命を達成したカトリック教会(の一部)は、一転、民主国家は誤りであると厳しく糾弾した。彼らはのちに、王政復古を支持するが、ルイ18世は7月革命で倒されていく。

さて、カトリックの国家的地位が低迷したとき、宗教とは何のために存在するのか?ということを考えなければならなくなる。わかりやすい切り分け方は、民主国家は現実的・物理的領域を支配し、宗教は精神的領域を支配するものだという区別だが、そうなると宗教は皆肉体を捨て、この世から消えていくものだということになってしまう。しかし宗教組織や建物は現実に存在する。現実に存在するそれらが現実の世でどのような使命を担っているのか。
その問に一つの答えを提案したのが、サン・シモン主義だった。宗教に冒頭に示したような地位を付与し、自由と平等の渦で変化する世界での意味付けを試みた。(しかしローマ法王にはウケが悪かったようだ。)

 

■リストとサンシモン主義

リストは幼いころから敬虔なカトリック教徒であると同時に、自由が享受できることの重要性を社会から感じ取っていた。彼自身は血筋的にはハンガリー、ドイツに縁があるけど、若い頃はフランスで活躍したし、言語もフランス語が一番得意だった。彼がサン・シモン主義に影響を受けるのも自然なことだ(リストはラムネー神父からその思想を学んだ)。というか、サン・シモン主義は当時のフランス社交界でかなり流行っていたのかもしれない。ショパンの恋人にジョルジュ・サンドという女性がいるが、彼女もサン・シモン主義を支持していたし、リストの一人目の妻マリー・ダグーも同様だった。

それにしてもリストの生き様には、他の人よりもサン・シモン主義がよく表れているというべきだろう。「天才は役に立たなければならない」といって、洪水被害があったハンガリーのためにチャリティコンサートを開く、ベートーヴェンの生誕75年祭のときにはベートーヴェン銅像を建立する費用を支出する、マスタークラスではレッスン料を徴収しない、無名な音楽家のために紹介状をひたすら書く、ワイマール宮廷楽団の楽長をしていたときには団員の給料を上げるように抗議する…などなど。
死に際でさえ、ワーグナーを喪ったバイロイト音楽祭を成功させるために自分が参加する必要があることを強く自覚しており、高熱に悩まされながらも出席し、そこで危篤状態になり、死んでしまう。「マヂでホンっトにメッチャ良いヤツ」という一言では言い表せないほどの献身的な活動を続けた。

そんなリストは、宗教音楽の改革を、当時の人々にも理解しやすいモノにしていく必要があると考え、チェチリア運動に加わった。聖歌の和声づけとか、それを現代譜記法(注:旧式の譜記法はそもそも五線譜ですらない)によって行うとか、だ。それは近代民主国家に生きる人々が宗教に親しむきっかけを作ることにつながり、ひいては宗教のサン・シモン主義的位置づけを認識することにつながると考えたのだろう。


■オラトリオ「キリスト」
一般に、クラシックに親しんでいる人が考えるリストの最高傑作といえば、ロ短調ソナタとか、メフィスト・ワルツ、最高傑作と言わなくても、超絶技巧練習曲、ハンガリー狂詩曲2番とか12番、スペイン狂詩曲、ダンテを読みて、エステ荘の噴水などが割りと名曲として評価を受けている。たしかに僕自身もこれらの曲は好きではあるけれど、彼の生き様からすれば、最高傑作と言うには今ひとつしっくりこない。現代日本ではリストという作曲家は「ピアノの魔術師」、「超絶技巧」というワードで評価されることが多いが、そのような評価は彼を正当に評価していないように思う。リストが一番情熱を注いだのは宗教音楽だからだ。
そこで1872年に完成したキリスト(Christus)というオラトリオを最高傑作として挙げたい。この楽曲はキリストの生誕から復活までの主要なエピソードを第1部、第2部、第3部と分けて3時間に及ぶスケールで描いている。合唱のテキストの大部分はラテン語聖書から採られている。教会旋法を使った古風で牧歌的な音楽で始まるが、物語が進むにつれて半音階と全音階と混合した楽章が現れるなど、非常にアバンギャルドな側面もある。

リスト本人も「この作品は私のすべてを注いだ遺作である」としている。それは音楽的な要素をすべて包含しているということにとどまらず、彼の思想とか祈りとか、彼が生きた社会とか、前妻と破局したけど宗教や財産の関係で離婚が許されなかったことに対する怒りとか、自分の宗教的作品が人々に受け入れられないことへの諦めとか、リストがリストであるに必要であったモノが全て詰め込まれているという意味で捉えるべきなんだと思う。

この曲が出版された1872年には、リストは61歳になっているが、やはりサン・シモン主義的だと思う。曲を聞けば、上述のような宗教曲の現代化とその意義がよくわかるし、宗教ど真ん中の題材をよくぞここまでロマンチックに描くことができたなと感じる。そして僕は実際、各楽章に該当する聖書の部分を読んで、どのような教訓が隠されているのかを調べていた。さすがにキリスト教に改宗する気はないが、現代の国家と人、宗教の関係性についてより深く考えることができたし、僕が普段いろいろ思いを巡らしている租税観にも影響があった。

彼は若い頃に父親をなくし、ピアノ教師をして家族を支えていたので、学問が出来なかった。音楽家として成功していたとしても、無学を大変悔しく思い、負い目に感じることもあったようだ。しかし、リストは、音楽という自分のテリトリーで、当時の学問が目指す理想を実践した。彼のその勇気に敬意を表してこそ、彼を正当に評価するということになるだろう。

株式納税

租税の権力関係というのは経済学と法学、哲学の境界領域の問題で、難しい。
僕が考えていることは、その問題を考えて、現実の制度に落とし込む方法なので、双方の専門家からでたらめなアプローチ、理解に値しないものと烙印を押されて当然の代物。
だけど、僕は宣言しないと何もやらない性格なので抱負?を一応公表しておきたい。

今年の僕は、「貨幣以外の納税の方法の模索」というのを大きな検討課題にしたいと思う。

古代の日本には租庸調(稲、物品の租税)と雑徭(労役)という制度がある。国家への捧げ物にはカネ・モノ・カラダという方法があるというのは、一見すると今でも当てはまるように思える。
けれども日本国憲法30条の納税の義務というのは、現行憲法改正時の審議録を見ると、

(1)カネ納税はもちろん義務あり
(2)モノ納税は差し押さえという形で義務あり
(3)一方、カラダ納税は30条からは導き出せず憲法上の義務はなし

という解釈をしているようだ。
僕は憲法30条は納税の権利を裏側から規定している条文だと思っているので、↑の解釈を権利として裏返して見ると、カネ納税の権利、モノ納税の権利があると考えている。
そこで、日本の財政赤字が延々と続いていよいよ駄目っぽいときにどうするかを考えてみると、貨幣(による)納税とは別に、株式(による)納税という概念を編み出してはどうかということに至る。現行でももちろん、貨幣納税ができないときには株式等の金融資産は差し押さえられることもあるけど、それはその資産を競売などでカネに変えて歳入にするという流れになっている。
そうではなくて、有価証券というモノ納税として、国家に有価証券の使用収益は認めるけど、処分(売り渡し)することは認めないという納税方式だ。つまり、国家権力によって強制的に株券を徴収し、国家が企業の株主になる。モノ納税者側の権利によって国家に株式のキャピタルゲインは認めずインカムゲインのみを認めるという制限をつける。租税は個別的な反対債権なく一方的に財産を徴収する国家権力の発動なので、国家はコストをかけることなく株式を収集することができる。
究極的には企業を国有化することになる。

この方法は、第1次世界大戦集結時、深刻な財政悪化で国家デフォルト目前!というオーストリアをどのように再建するかというときに、財政社会学の祖であるゴルトシャイトが提案した方法だ。現実にはこの方法が採られることはなかったけど、非常に魅力的なアイデアではあると思っている。
財政破綻すればIMF国際通貨基金)という国外の機関が国政に大きく干渉することになるが、国家自体が企業を国有化するならば、国家自体が収益を上げられる上に、財政を通じて国民→国家→企業という形で国民が経済政策を決定する余地がある。

「こんな考え方では自由な企業活動が脅かされる、社会主義共産主義だ」と嫌う人もかなりいるのはわかっているけど、僕は民主的経済コントロールがたとえ形式的なモノであったとしてもIMF管理よりはマシかなと思ったりする。
論理としても、財政破綻したからといってなぜ国際機関が介入できるのかは説明しにくいけど、株式納税を認めることと財政を通じた民主的経済再建、有産国家化というのは国民主権という観点からは割と容易に説明できそうな気がする。

最終的(500年後とか)には、租税という形はなくなって、有業国家、有産国家として、社会統合に必要な財源を事業収入で賄うというような形態になっていけばいいな。納税の権利とか言ってみたって、やっぱり税金はない方がいいもんね。

貨幣による納税以外は認められないものなのか

納税者の権利とか、納税の権利について僕の他にも考えている人はいて、それは大いに励まされることであるけど、一つだけ気になっていることがあって、それがタイトルとつながる。

お金以外の納税の支払いがあるんじゃないかという視点で、つまりは「古来の租・調・庸みたいに、お金での納税の他に物品や夫役(賦役)といったものでも納税を認めてよろしいのではないか」という問題だ。

日本では(というか世界的にだとは思うが)まず貨幣による徴税があって、払わなければ(払えなければ)資産の差し押さえというかたちでお金か所有物を処分させられる。この点で、貨幣と物品という方法は現代でも見られる。

 

夫役はどうかというと、これは日本国憲法上国民の義務になっていない。帝国憲法から現行憲法への改正時の審議の中でも、30条(納税の義務)について「本条は国民に夫役を課す場合の根拠となるか?」という意味合いの質問に対し、金森徳次郎国務大臣は「夫役を課す根拠にはならないが、夫役を課すことを禁止するものでもない。奴隷拘束の禁止など、他の条項によって保障される人権との調整をしながら、別途法律制定の手続きによって夫役を課すことは可能」という趣旨の答弁をしている。

 

なぜ、我が国の憲法が、夫役を租税として認めていないのか、あるいは、夫役を租税として認めないことは自然権からくるものなのかは別途詳細な検討が必要になるが、ここでは、貨幣、物品による納税のみが国民の義務として課されていることを確認しておきたい。

そして憲法30条を義務であると同時に権利であることも認める立場(僕、ただし政策的に追加規定したものでなく自然権に由来することを重視する)からみた時は、「貨幣による納税の権利」、「物品による納税の権利」が認められるのみで、漠然とした抽象的な納税の権利を認めてそこから「夫役による納税の権利」を導き出すのは難しいと感じている。

 

出先なので詳しい検討はできないが、それは労働というものが、物品と違って貨幣で正しく計ることが出来ないということが根底にあるのだと思う。「労働力が賃金として評価されてるじゃないか!」ということとはちょっと違う視点だ。

つまり、応能的負担をさせるなら、まず個人がどれだけのパワーを持っているかを測定しないといけないけども、それができない。そして、細かな作業が得意な人がいれば体力仕事が得意な人もいて、その2人にどのように夫役を課せば平等であると言えるのか、全くわからない。そういう、租税平等原則とかが適用できないので、納税の権利の論理を展開することが困難だと思う。

北野裕久博士のことば

「租税法学に関心を持ってからほぼ30年になろうとしている。30年前の頃はむろん日本の租税法学はかげもかたちもなかった。当時、私が一番驚いたのは、日本の税制や税務行政が憲法秩序と無関係に構築されている点であった。加えて雑多な方法に基づく税制論や税務行政も憲法論・人権論と無関係に展開されていた。これは、ある意味ではおそろしいことのように若かった私にはおもわれたのであった。」
北野裕久博士のことば(三省堂憲法と税財政」(1983))

 

北野先生は納税者の権利論を展開した稀有な税財政法学者。

いじりといじめ

「いじり問題」について考えたい。
身近にいたイジられキャラに想いを馳せながら。

いじり/いじられの関係というのはゆくゆくは(早めに)人類社会から根絶されるべきだと思う。

私見だが、いじめといじりは下記↓のように区別できるのではなかろうか。


【いじめ(狭義)】
★定義:多数対一または一対一の関係において、本人らが何ら負担を負うことなく相手方に特定の「行為」を強要することで、相手方を自身の領域から積極的に排除するか服従させようとする行為。
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☆補足:強要した行為によりいかなる結果が生じたとしても、排除・服従の目的が達せられれば良い。


【いじめ(広義)】
★定義:狭義のいじめに加えて、相手方への暴行や傷害行為によって、相手方を自身の領域から積極的に排除するか服従させようとする行為。


【いじり】
★定義:それぞれに充分な信頼関係のない複数当事者間において、本人らが積極的な排除意思をもたないうちに相手方に特定の「結果の発生」を強要する行為。
★定義:「それぞれに充分な信頼関係のない」とは、本人らと相手方の間だけでなく、本人らの間にも信頼関係に差があることをいう。(理由:本人らの間には充分な信頼関係があるならば、本人らが相手方に強要する行為は、場を盛り上げるというような結果の発生を望むものというより、本人らのルールに従うという行為を要求するものだから、もはや狭義のいじめと評価できる。なお、場を盛り上げることは本人らの間で行われる信頼のあるいじりで実現できる。)
★定義:「積極的な排除意思をもたない」とは、①信頼関係構築意思をもっている、②自身の領域から排除する意図はないものの、これ以上の信頼関係構築も望んでいない(消極的排除意思)、の2つ。
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☆補足:強要した結果が実現されれば①信頼関係構築意思が持続し、実現されなければ②消極的排除意思に移行する。
☆補足:えてして、いじりでは信頼関係は構築されない。ゆえに本人らの内心は時間の経過によっても①から②へと移行していく。


【信頼のあるいじり】
★定義:本人らと相手方の間に充分な信頼関係があり、本人らが相手方に特定の行為または結果の発生を促す行為。
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☆補足:充分な信頼関係のもとであれば、消極的排除意思は発生しないため、結果が実現するに越したことはないが必ずしも結果の発生を求めるものではない。
☆補足:信頼のあるいじりはほとんど社会問題にならない。

 

・・・不十分な定義かもしれないが、このように文字にしてみると、いじめといじりは根本的に違うもので、いじりの延長線上にいじめがあるわけではないということが分かる。最後の最後までいじりの場合もあるし、いじりからいじめへ転化する場合もある、くらいに考えておいたほうがいいだろう。

場合によってはいじめに転化したほうが、被害を認定しやすいし、周りに相談しやすい、周りも介入しやすい、とも言えるかもしれない。
最後までいじり行為に終始する場合は、本人が「愛がある」とか言って加害の意思がないから、いじられる側は今自分がどういう立場なのかを自認しにくいし、周りにも相談しにくい。相談を受けた方も「それで周りの空気が温まるならいいんじゃないの」とか、安易な助言で終わってしまう可能性が高い。そして結果を要求される点でハードルが高く、いじめよりもはるかにたちが悪い。

ただ、上記のようにいじめといじりを区別したとしても、実際には強要されている行為とその結果は表裏一体のものであるし、いじめられる/いじられる相手方は本人らの内心を常に知ることが出来るわけではない。知ることが出来ない場合、強要されているものをどのように判別するかは、相手方がどのような効果を期待して強要に応じるかで決すれば良い。つまり本人らの内心を相手方がどのように認識したかということに尽きる。
「逆らったら殴られる、今後無視される」というような理由で応じるのであれば、いじめられていると認識しているし、「笑いを求められてる」とか「嫌われたくない」といった理由で応じるのであればいじられていると認識している。

そんなこんなで、教育者や大人、大学生たちはいじりをいじめの前段階と位置づけていじめ対策の中で処理するのではなく、全く別筋のスキームでいじり対策を考えないといけないと思う。
とはいっても、いじりの修正はかなり難しい。いじりは信頼関係のない中でなんとか互いに接点をもとうとする努力の表れではある。根本的には悪気はないのだ。しかも一時的に同じ空間、体験を共有することには成功してしまうから、双方ともそのことに喜びを感じ、いじりに依存してしまってそれ以外の方法での接点の持ち方を忘れてしまうようだ。
ほんとうの信頼関係が何によって生まれるかといえば、やはり互いに相手がどんな考え方をする人間なのかということを知ることによってしかなし得ない。しかし価値観を共有したいと思っていても、言うほど我々は自分のものの考え方を日常的に赤の他人に垂れ流すようなことはしない。それを解決するためには、どんな異端的な、公序良俗を害する発言でも絶対に否定せずマジレスする会のようなものを定期的に開催するしかないかもしれない。そこまでいかなくとも、他人と違う発言をすることを推奨しなければならない。
いじり対策のスキームはまたいつかきちんと検討したいと思う。

では、本人らと相手方でいじめといじりの認識が異なっている場合、どちらのスキームで対応するべきだろうか。
基本的に、誤想している相手方の理解を改めることからはじめて、本人らの主観に合わせた対策をすべきと考えられる。

【1】本人らはいじめている認識で、相手方はいじられているとの認識だった場合
本人らの相手方へ害悪を及ぼす意思は強く、また相手方は「結果の発生を求められている」と自らハードルを高く設定している。まず相手方に、本人らはどんな結果であっても構わず、相手方を貶めることが第一義的であることを説く。つまり「あなたはいじめられている」と宣告する。

【2】本人らはいじっている認識で、相手方はいじめられているとの認識だった場合
本人ら、相手方を同席させた上で、本人らには相手方を排除したり害を加える意思が無いことを代弁し、本人らに確認させる。そしていじりは虚無的な信頼関係しか構築しないのだから、本人らにいじり行為を中止させる。また、「本人らも相手方も仲良くする方法がわからないだけだ」ということを分析的に説明し、対話させる。

ざっとこんなところだろうか。

天皇教の国の憲法

 

現行憲法をみれば、日本という国の法源は一つが国民主権、もう一つが天皇という二元的なものになっていると感じる。より正確に言えば、法源国民主権だが、法の前提となる道徳や倫理の解釈を天皇に大きく依存していて、その結果として天皇法源になり得る。
憲法4条には国政に関する権限を有しないとは書かれているけれども、天皇の意思や態度の表明が国民に与える影響は非常に大きく、しかも理論に訴えるのでなく感情に訴えるものだから排除するのも難しい。

y=f(x)

x:国家が調整すべき事項(立法、司法、行政3権を発揮すべき事柄)
f(x):国権発動の適正な手続き(立法プロセス、適法な行政、司法判断)
y:国権発動の結果

とすると、天皇はxについて介入することは出来なくても、yそのものに言及することはできる。要は、天皇があらかじめ結果を提示して、それに適合するように理屈を考えるというということが許されているようだ。

もっとわかりやすく考えると、あみだくじを作って実施することに似ているかもしれない。

・あみだくじを作る人が立法
・あみだくじをなぞる人が行政
・作る、なぞるが正しいことをチェックする人が司法
・スタートからえられた結果がそのゴールでいいのかを考えて、作る/チェック役に問いかけをする人が国民
・国民の親が天皇(あみだくじ作り自体には関与しない)

例えはともかく。

国民はこれまで「天皇死ぬまで」にほとんど何も考えてこなかった。しかし、ひとたび今上陛下がお気持ちを表明するや否や、世論的にはそれにほとんど賛成する声が大きかった。事柄の性質上、「本人がそう言うなら…」という心情を抱くものではあったけど、殆どの人がなぜそうした方がいいのかを理論的に深く考えなかった。そしてあれよあれよという間に生前退位の特別法が成立するに至るとの結果を得た。

天皇が行うことのできる行為はどの程度まで許されるのかについては争いがある。憲法7条などに規定される国事行為と、純粋な私人たる私的行為の間に、象徴たる地位としての象徴行為として認めるべきだという象徴行為説がポピュラーらしい。この象徴行為は内閣のコントロールが及ぶ範囲であれば、憲法上は許す許さぬと書かれていなくても天皇が行うことのできる行為として認められるという。

しかし、そんなことを考える前に、天皇の地位は何によって保たれているかを検討してみたい。
天皇は戦前の国家神道の神であるし、それ以前も、神話上神の子孫という扱いになっている事実がある。
さすがに現代人で、天皇が本当に神だと思っている者はいないだろう。天皇が生物学的には普通のホモ・サピエンスであることは疑いようがない。しかし、憲法が個人を象徴としていることは、(あるいはその血筋は)やはり特殊な人間であるということを伺わせる。そしてそれは国政の権限をもたないが故に主に心の支えとして機能している。
僕は水俣出身だけど、水俣病犠牲者慰霊式に天皇陛下がいらっしゃって祈りを捧げられると、犠牲者はようやく死後に救済されたのではないかと思い入ってしまう。あるいは、君が代が国家であることも実権を持たない憲法上の天皇であれば全否定しなくても良いんじゃないかとか思ったりすることもある。
そんな感じで、日本人は国家神道とは訣別しているが、いまだに天皇がオーラというか、なにか神聖な力を有していると考えている。いわば天皇教だ。で、天皇という存在は神聖ニシテ侵スベカラズとはいかないが、神アニメとか神アイドルみたいな感じの意味の神以上には神ではある。天皇陛下の発言に注目が集まるのは日本人の多数が天皇教信者で、神の声を聴きたいからだといえる。
こういった事情に照らしてみれば、天皇は宗教的地位を併有しているわけで、この地位に基づいて種々の行為を行える(行っている)と考えたほうが妥当な結論がえられるんじゃなかろうか。これを準宗教行為説と名付けよう。準というのは、どうやら政府は国家神道を宗教とは位置づけていない、天皇教も宗教ではなく文化だと主張しそうだ、ということを強調するだけの意図だ。

象徴行為説にたいして「象徴に積極的な意味を与えることになる」という批判があるようだが、とある宗教の神を象徴として位置づけてしまったことによる当然の反射的結果といえる。ただ、そう考えたとしても内閣の責任が不当に(憲法以上に)増してしまうことには免れたい。内閣の助言と承認はあくまで国事行為についてのみ必要とされるだけだ。
それに99条によって天皇にも憲法尊重擁護義務があるのに、行為が制限されるのであれば、その義務を果たすことが困難になるわけで、むしろ象徴であることに積極的な意味づけを行わなければバランスが取れない。そこで、準宗教行為として位置づけることを検討する余地がある。準宗教行為は憲法の趣旨に合致する範囲で、しかも内閣に責任を負わせることなく自由に行うことが出来るとすれば良い。

お気持ち表明なりなんなり、ガンガンおあそびなさったらいい。ツイッターとかインスタとかやってIT天皇とか言われればいい。そして国民に考えるきっかけを与えて、天皇の考えに反対すべきものは反対できるような関係の構築が必要だと思う。
その関係づくりが、憲法の趣旨にそぐわない行為が行われたときのその後の明暗を分けることになる。

この問題を考えると、基本的には違憲的発言はゆるされないが、例外的に
(1)憲法に合致しないが、教義に合致する行為の場合は20条の政教分離規定により許される余地がある。

そして、そう考えるとしても、やはり
(2)憲法に合致せず、教義にも合致しない行為はもはや宗教的地位に基く行為でなく、排除される。

というのがひとまずの着地点だろう。

ただ、(1)がかなり広い。国家神道には明白な教義がないといわれるし、天皇教は僕の造語だからますます怪しい。ただ、両方に共通するのは天皇そのものが神、道徳の創造者であると考える点だ。人には理解できないことでも人智を超えた神がやることはだいたいなんでもオッケーだ。

これまた極端な例だが、皇族が病気とかで男の子が生まれないどころか女の子も生まれない、本当に全く後継ぎが生まれなくてどうしようもないとか、いたけれども航空事故みたいなご不幸で居なくなってしまってどうしようもないとなったとき、いろいろ対応を考えないといけなくなる。どの程度の傍系親族までなら世襲といえるのか、皇族に限って一夫多妻制をみとめたらどうか、はたまたクローン人間はどうか…。モノによっては憲法的価値判断では到底解決が得られないだろう。

そんなとき、天皇が「多くの医学研究者の方々のご尽力によりクローン技術にたいし、国民の皆様からの信頼が集まっているのを日々感じております」などと、あの抑揚をおさえて意図的に機械的にされた口調でお気持ちを表明したらどうなるか。

脳を持たない臓器提供のみを目的としたヒト・クローンぐらいであれば、まだ個人として尊重すべき人ではないとか、合憲とする理屈はどうにかこねくり回せるとおもう。でも完全なヒト・クローンを作って、しかも憲法上人権が大きく制限される天皇候補として生み出すというのは完全にアウトだし、そもそもそれが憲法2条で必要とされる世襲要件をみたすのか?賛否が別れる問題で国民にはどうにも判断し得ないというか、否定派が多いだろう。しかし天皇がオーケーを出してしまえば、お気持ち表明行為自体を憲法問題として咎める人はそんなにいないし、多分そのように動いていってしまうんじゃないか。場合によっては、憲法の方を改正して世襲でなくとも良いとするかもしれない。現状、日本人(天皇教徒)はそれぐらい天皇を許容しているとおもわれるが、もっと自分たちで考えて答えを出すべきじゃないのか、こういうのは。だから、天皇と国民の意見交換ができる関係構築、訓練が必要なのだ。

(2)は、自ら天皇の宗教性を否定する行為などが挙げられよう。国会開会のおことばのなかで日本をキリスト教国家にしたいなどと発言することは許されない、というか、意味をなさない。国民の信教の自由を侵害する点で憲法に合致しないし、天皇の道徳想像者性を失わせるので、国民はその発言を容易に否定しうる。
ただ、「天皇も間違ったことを言うのだ」ということがはっきりわかるので、そういう意味ではそのような発言こそ信者の目を覚ますのには効果的ではあるけど。それがあえて憲法上否定されるというのが興味深い。もしこのような発言で天皇の地位が揺らぐことになれば、公金で皇室を維持していることの正当性が揺らいでしまう。違憲的反教義的行為が否定されるからこそ天皇制が正当なものとなり、日本人(天皇教徒)の天皇観によく合致している。日本国憲法はまさに日本人のための憲法だと感じる。

 

 

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ちょうど読売新聞社が↓のような調査を報じていたのでメモしておく。


 読売新聞社が8~10日に行った全国世論調査で、天皇陛下が2019年4月30日に退位し、5月1日に皇太子さまが即位することが決まったことを「よかった」と答えた人は91%に達した。

 「よくなかった」は3%。

 天皇の位を継げる皇族男子が減っていることについて、政府が対応を「急ぐべきだ」とした人は27%で、「慎重に検討すべきだ」が65%に上った。
退位を可能にする特例法の制定で与党と一部を除く野党が合意した今年3月の調査でも「急ぐべきだ」29%、「慎重に検討」64%で、大きな変化はなかった。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171211-00050088-yom-pol

政教分離と天皇教

政教分離とはなかなかむずかしい話だ。

日本国憲法でも20条に信教の自由が掲げられて、政教分離をすることになってはいる。

 

フランス革命がおこった時、カトリック教会はフランスの統治から一旦は締め出された(国家の宗教から国民の宗教という位置づけに変化した)ものの、紆余曲折あってその後1世紀弱の間も国家予算から教会の維持に当てられる資金が支払われていた(コンコルダ制度)。革命を起こし、自由を獲得した国でさえ紆余曲折を経ている。

 

日本は象徴天皇制を採っている。皇室典範は普通の法律と同じで民主的に改廃することが可能になっている点、天皇明治憲法の神聖にて侵すべからざる存在ではなくなった。

日本帝国では、国家神道というのはあくまで道徳のレベルであって宗教ではないからいいのだという言い方で国民に天皇崇拝を強要していたけれど、やっぱり宗教だとおもう。たしかに、神道自体は明確な教義を持たない、それゆえに大した道徳や法源を生み出さないゆえに、聖徳太子が大陸から仏教を輸入して、それによって統治をしてきた。でも、例えば外国の有名な「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」なんかは、スパゲッティ・モンスターがこの世を造ったということを信じるくらいで、そこから倫理とかが生まれてこないものの立派な宗教として扱われているわけで、そのことと比較して国家神道について考えると、人間を神として扱っているし、超自然的なものを崇めている、そして神を守るために道徳が規定されている…これを教義と言わないでおくのは無理があるように感じる。

さすれば、天皇は国家的機関ではないしなんの権力ももたないものの、やはり宗教的な存在であることは伺える。憲法が変わったからと言って宗教的ではなくなったというのは難しい。天皇天皇教の神様だ。それが憲法第1条に国民の象徴として決められているというのは、フランス憲法に「ローマ法王はフランス国民を表す」とか書かれているのと同じくらい不自然な感じがする。

 

そして現実的には天皇が国民を代表している面もあって、天皇の鶴の一声は国民世論に大きな影響を与える。今上天皇生前退位のお気持ち表明したのを否定する国民は少なかったと思う。「まぁ本人が言うんなら」とかそういう軽い気持ちかもしれないけど、実際にはそれによって法律の改正が必要だったり、特別措置法が作られたりしたのだから、権力が動くことになった。国民(天皇教徒)は天皇(神)のお言葉を心待ちにしている部分が大いにある。だから、どんな政治的立場でも天皇のお言葉とか、宮内庁付き記者の書いた記事なんかはついつい読んで、その天皇の意図を汲み取ろうとしてしまう。主権は自分たちにあると謳いながら、精神的には天皇にかなり依存している。

 

現状から考えると憲法3大原則で挙げられる国民主権というのは現状を反映していなくて、主権は国民と天皇に二元的に由来するとか、天皇から国民に主権が授権されたとか、そういう感じの言葉で表したほうが良いように思える。

 

日本は天皇教を国教とする宗教国家。今上陛下の人柄は好きだけどね。

でも税金で皇族費とか内廷費とかを出さなくても良いんじゃないかと思う。憲法からは除外して、税金じゃなくて、信仰熱い人がお布施をして、それで天皇という存在自体はずっと維持していけばいい。そうすれば、女性宮家がどうとか女系天皇がどうとか、そういうのは単なる宗教内部の統治問題だ。カトリックがどんな基準でローマ法王を選ぼうが勝手、創価学会幸福の科学がどのような基準で代表者を選ぼうが勝手というのが宗教に対する本来あるべき国家・国民の態度であって、今の状況、立法権を発動しなければ皇室典範を変えられないという方がよっぽど宗教に対する不当な制限に見えてくる。

徴税権行使義務の根拠(前回のつづき)

前回のつづき。

 

国が徴税権を持つとして、権利は行使することもしないことも許されるとするのは不都合だから、この恣意性を制限するために納税の権利を認めるべきだと思うのだが、これに対して「租税法律主義、租税平等原則によって、恣意性は排除され、徴税権は必ず行使しなければならないことになるから不都合は生じず、納税の権利を認める必要がない」と反論されそうだ。


法の下の平等に基づく租税平等原則では全ての任意性を排除できない

租税平等原則は憲法14条の法の下の平等に由来するものだと言われる。しかし、単純に、法の下の平等の徹底するがために徴税権を必ず行使しなければならないとするのは早計だ。

まず、租税を定める法律の内容そのものが平等なものであるかどうかという、法令違憲を考える段階での検討がされる。
次に、合憲性を伴った租税法を運用し、個別に適用することが平等であるかという適用違憲の検討が別途必要になってこよう。徴税権の行使不行使の正当性を考えることは、この段階での問題である。

憲法14条1項は、「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と定めているわけだが、差別しても良い例外をゆるすかどうかにはその要素によって若干の濃淡がある。人種や性別による差別はそのように差別しなければむしろ弱者を保護できず、他に手段もないような場合に限って許されるものであって、原則的にはほとんど絶対に許されない(厳格審査基準)が、社会的身分による差別は著しく不合理でなければ許される(厳格な合理性の基準)…こんな具合だ。

このような議論を徴税権を行使しないことについて考えると次のようになる。


【例1】同じ所得を有する男女について、性別の違いによって異なる税額を法律上設定することは、そうしなければ女性の地位を確保することが他の手段によっても不可能と考えられなければ、不当な差別であり許されない。また、性別の区別なく所得という基準のみで税を設定しているにもかかわらず、男であったから徴収し、女であったから徴収しなかった場合は性別によって差別しているので徴税権を行使しなかったことは平等主義的運用を逸脱する。

これは簡単だ。法令そのもの、適用段階のどちらについても例外を厳しく制限していることが分かるだろう。問題は身分による差別であるが、あえて徴税しないことが許される極めて特殊なケースであることを自覚の上、例を出してみる。


【例2】漁師が壇ノ浦で漁をしていたところ、平家物語の中で海に沈んだとされる草薙の剣を発見し、所有権を取得した。本物であることの鑑定を受け1000億円の値がついたが、漁師はその剣の国家的な位置づけを重視し、皇室に無償で献上することを表明し手続きをしていた。ところが、その協議の最中に不慮の事故で死亡してしまい、草薙の剣の所有権は息子に相続された。また息子も無償献上することを希望している。ところで、三種の神器皇室経済法7条における皇位に伴う由緒ある物であり、相続税法12条によって天皇から皇太子に相続するときは相続非課税となる、それは三種の神器がもはや値がつけられないか、値を付けたとしても天文学的な金額になるため、相続税の対象とすると皇室は破産してしまうためである。そこで、本件草薙の剣については1000年以上海に沈んでいた間、皇位とともに継承されてきた事実はないし、皇族ではない者の間での相続で皇室経済法の適用は受けないはずであるが、非課税の取扱いとし、徴税しなかった。


こんな事例は現実にはほとんど起こり得ないが、徴税権を行使しなかったことについて異議を唱える国民はいないだろう。無償で譲渡することがほとんど確定しているのに1000億円に対して課税されれば、逆に不合理である。
このように、相続税法の規定には逸脱するものの、むしろ徴税権を行使しないほうが天皇、国民という社会的地位の違いによらず平等であるということも考えられないわけではない。
あるいは、議論が分かれるだろうがこういう例もありうるかもしれない。

【例3】生活保護水準を下回る所得、資産しか有しないが、生活保護を申請していない者に対して、国民健康保険税を徴収しなかった。

生活保護受給者は国民健康保険の対象ではなくなる(医療は生活保護の中の医療扶助によって行われる)ので保険料を納めない。生活保護を申請していない者は国民健康保険の対象ではある。しかし、生活保護で保障される健康で文化的な最低限度の生活を維持するに足りない経済事情に置かれているにもかかわらず、例外を認めず国民健康保険税を必ず徴収することが、真に平等であるか。

 

上記のように徴税権を行使しないことが半ば温情とか一般人の感覚としては馴染むものだったとしても、ここで僕が問題にしている「憲法14条が租税平等原則(そして徴税権行使義務)の根拠になりうるか」ということになると、14条からは、「いかなる事情があっても徴税権を必ず行使しなければならない」とすることは出来ない。


■納税の権利が認められず、平等原則の例外に該当し義務を履行出来ない場合の議論(抵抗権)

と、すると、何かしらの合理的な理由をもって観光促進税について徴税権を行使しないことが許され得る場合があることも否定できず、その結果として出国できない場合がある。
しかも裁判でもその違法性がみとめられなかった場合には、いよいよ抵抗権を行使するしかないということになる。

憲法秩序が破壊された場合に国民が実力をもってその回復を測る権利を意味するいわゆる抵抗権の規定は憲法の明文には存しないが、憲法12条が基本的人権を不断の努力によって保持する責務を国民に課しているのはその趣旨の現れであると解せないでもない。

憲法12条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」と規定している。

もし徴税権の不行使が容認され、納税の権利が憲法上保障されてないとするなら、憲法12条を根拠に抵抗権を行使することはできない。不断の努力で保持しなければならないものはあくまで権利であって義務ではないし、12条は義務についても保持義務があるとする趣旨と解するか、あるいは12条の規定にかかわらず抵抗権を検討するとしても、義務を守るために抵抗するというのも不自然極まりない。

また、出国の自由という権利を保持することの延長として納税の義務を履行する機会を要求するという考え方もできなくはないが、「税金なんかとらずに自由に出国させろ」と、「出国するために税金をちゃんと受け取れ」では随分意味合いが変わってくるし、後者の要求ははっきりいって出国の自由の一部を自ら放棄していて、勝負する前から負けている。そして観光促進税以外の税における徴税権の不行使についてはこのように別の権利から「税金をちゃんと受け取れ」という要求を導き出すことが出来ない。

 

■解決法と帰結

で、あれば、私たちは国家を形成した段階で納税の権利というものをもっていると考えるのが自然だし、抵抗権では義務を確保することが出来ない以上そうしなければいけない必要性がある。我が国の憲法上は、30条「納税の義務」にその趣旨が含まれていると解釈すべきだ。そして、租税平等原則の根拠を納税の権利に求めることによって、国家には徴税権の行使を絶対的義務と位置づけ、その恣意性を一切排除する(上記の事例による例外を一切認めない)。その上で別の権利や平等の観点から問題があると認められるときには納税義務者の側から異議を唱えるべしという関係が望ましい。
徴税権を自分から行使しなかったのではなく、納税を拒否された結果として徴税できなかったという形であれば、必ずしも国家自らが平等原則を破ったとは批判されないという算段だ。

さて、これまで見てきたように、徴税権の行使義務の根拠を「A.法の下の平等に求める立場」と「B.納税の権利に求める立場」がある。観光促進税をそれぞれの立場を運用するにあたってどのような違いが出るか、一つ例を出してみよう。

 

【例4】犯罪の嫌疑をかけられている容疑者が国外逃亡を企てた場合、課税当局が犯罪容疑者であることを知りつつ観光促進税を徴収したが、出国審査当局も容疑者であることを知っていたため、出国は認められなかった。

A.(法の下の平等の立場)たとえ容疑者という身分であっても出国の自由があると評価しているために徴税権を行使している一方、出国審査においては容疑者であることを理由に出国を認められていない。これは国家の意思が矛盾しており、徴税権を行使したことの合憲性に疑問が残る。つまり観光促進税の返金が必要か否かという問題がある。

B.(納税の権利の立場)たとえ容疑者であっても納税行為そのものを課税当局自ら制限することは許されないから、徴税しなければならない。出国審査の結果、出国できなかったとしても徴税したことは納税の権利を保障した結果にすぎないのであって合憲的である。ゆえに観光促進税の返金は不要である。