テンポラリー

そのときに思いついたことの備忘録。租税について考えることが多い

コロナ医療崩壊は厚労省が医療保険と介護保険を分断しているから

 

この投稿は
・コロナ対応の病床に入院できないコロナ陽性患者は、いきなりホテルか自宅での待機となるようだけど、これはおかしい。
・治療法が確立されてない≒医療モニタリングが必要なのだから、まず医療機関に優先的に入院させるべき。
という考え方に基づいて、日本の今般のコロナ感染症対策と平時の医療制度との不整合を考察したものです。

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医療が必要なのに医療が受けられない、医療崩壊という言葉が深刻さを増してきている。
この要因の一つは、医療保険介護保険との連携ができない分断的な制度を作った厚労省にあるだろう。

多くの人は、介護保険のサービスの一部が医療的なサービスを提供しているという意識はあまりないだろうけど、介護保険には介護老人保健施設老健)や介護医療院といった、医療にも一定対応できる施設がある。これらはもともと医療保険上の療養病床群から出発した施設だったのを、介護保険に移行したもので、その一部には「介護療養型"医療"施設」という名称が使われたこともあった。報酬体系とか人員基準とかかなり変容はしているけれど、全く使えないということはないと思う。

仮にこれらの施設が未だに医療保険上の施設として運用されていたならば、医療必要度の低い患者をこういった施設に送り込んで、病床を最大限に確保できたかもしれない。

しかし、それができないのが介護保険で、まず要介護認定を受けないといけないし、ケアマネさんが介入してケアプラン作らないといけないし、そもそも65歳以下は原則介護保険サービスを利用することができない。介護保険の要介護認定やケアプランやサービス支給限度額といった枠組みは、そもそも出来高制の医療保険給付を制限するために導入された医療費抑制のための制度なので、そりゃ使いにくい。
このために、医療機関のコロナ以外の一般疾病の入院患者の受け入れ先が他の「医療機関」しかない。転院先が見つからない。だからすぐにいっぱいになって崩壊する。

厚生労働省内の組織としても、医療保険は保険局、介護保険老健局という風に、完全に管轄が分断している。
思うに、新型インフルエンザ特措法か感染症法には、この医療保険介護保険の垣根を越えられる制度措置が必要だったのではなかろうか。

【制度措置の例】

①まず、検査陽性患者が入院できるよう、一般疾病の患者のうち医療必要度の比較的低い患者(主に療養病床入院患者)を介護保険のために作られた施設に移す。介護系施設に入所するときには、要介護認定やケアプランや年齢制限などを無視するために医療保険を適用する。

②ここから先は介護保険とケアマネの腕の見せ所で、老健施設・医療院入所者を特別養護老人ホームショートステイ施設に移動させる。(医療必要度は比較的高いので、ここで特養の配置医師の他にも、訪問診療料や訪問リハの算定上限回数を緩和するなどして、各専門診療科の開業医・セラピスト等が関与できるようにする。)

③次に、従来の特養入所者・ショートステイ利用者をホテルに滞在させる。ホテル滞在者への対応については、医療現場を離れている休眠看護師に復帰を要請する。(看護師資格を持ちながら看護師として働いていない人は実は多い。それは病棟勤務が大変だったり、一口に看護と言っても診療科によって求められるスキルがかなり違うので、意外と潰しが利かないなどの事情がある。しかし、ホテルに滞在してもらう人は医療必要度の低い高齢者なので、医療第一線に復帰を求められるよりマシではないかと思う。)

医療保険医療機関の外側には、これまで見たとおり一定の医療に対応できる施設も人材も揃っている。
それから医療保険の中にも、休止状態になってる地域の有床診療所のベッドというのもあって、建て替えたりしていなければ、人材を確保して利用したりすることもできるだろう。有床診療所のベッドは、患者側の重症度などの要件があまりないので、どんな患者でも受けいれられるすごく便利な医療施設だ。
無症状から一気に死亡する危険のある新感染症への対策としてこれらの資源を使えていないというのが非常にもったいない。フルパワーを発揮できていないなという印象がある。

医療・介護の現場にいるわけではないので、それぞれがどのように大変なのか実際のところは知らないけれど、もうちょっとやりようはあったんじゃないかと思う。

 

 

このような措置は、実際には難しいだろう。老健入所者を特養に押し込むのは、至難の業だ。
ただでさえ特養は入所希望者が殺到しているからだ。まぁ、現入所者だけでなく、入所待ち中の人もまとめてホテルに押し込むということも、できなくもないかもしれない。それはケアラーをどれだけ確保できるかによるだろう。

実現可能性はともかくとして、「もともとは医療の一部であった介護施設が使えない」という点に一つの問題があるように感じたのでまとめてみた。

「ウチはウチ、ヨソはヨソ」──お母さん食堂問題

 

ファミリーマートの「お母さん食堂」という名称に疑問を持つ女子高生がネーミング変更を要請するオンライン署名活動をしていることについて批判が殺到し、いろいろと物議を醸している。
署名活動反対派は「昔から使われている、おふくろの味という意味の延長線上の言葉で、なにか女性を家事に押し込める意図と捉えるのは邪推しすぎだ」という。
一方、署名活動賛成派は「料理は女性(母親)がやるものだという観念を増長する恐れがあるから、お母さん食堂という言葉は使うべきでない」という。

これからの男女平等を考えれば、料理もその他の家事も男女ともにやるべきことで、一方の性に押し付けるべきではないという考えは正しいように感じられ、この署名活動が批判される理由はなさそうだ。
ファミリーマートは早急にお母さん食堂の名称を変更すべきようにも思える。

 

しかし、日本国憲法はそこまでリベラルな憲法ではない。家族・婚姻のあり方について定めた24条は、家族制度について「直接的にはこれをいけないとも言わないし、よろしいとも言わない」というのが草案を提案した帝国政府の態度だ。(昭21.9.18貴族院金森徳次郎国務大臣答弁)


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家族制度は法律上の根拠を失うとしても、各家庭が今後も家族慣習として運用したり、あるいは全く無視して現代的な男女平等の家族運営をしたりすることは各家庭に委ねられることであって、そこに国家としては首を突っ込まないし、誰しも他の家族のやり方に口を出すのは慎むべきだという家庭不介入の効果を与えている。

24条は法令レベルでは男女対等を保障するが、慣習、家族文化については「ウチはウチ、ヨソはヨソ」を是とする条文として捉えられるだろう。

これは信教の自由における政教分離の原則のようなもので、「特定の家族形態に対する援助・助長・促進又は圧迫・干渉をしてはならない」というような考え方が馴染む。

 

本来、現代の立憲民主主義では、表現の自由を保障することによって市民が自己の意見を政治過程に乗せて、自己統治を実現するということを重要視している。そのため、自分と異なる意見について反対意見を提出することも妨げられない。議論を深めればより正しい方の意見が必ず勝ち残るという思想の自由市場という考え方が当てはまる。「議論することは良いことだ」という建前がある。

ところが、家族の問題については、この24条があることによって、相手と自分の間に意見の対立があるとしても、わざわざ反対意見を提出するような無粋な真似をしてはいけないということになる。「議論すること自体が悪」とされる。

 

「男が稼ぎ、女が家を守る」という態様の家族運営は旧来の家族制度の性質が残っているとも評価されるが、そのような夫婦のあり方は地方ではまだまだ当たり前、僕らの親の代ではそれが当たり前という現状だ。しかしその状態を「不適切」として一つ一つの夫婦間に割り込んでいって「旦那さん、あなた時代遅れですよ!」ということはできない。せいぜい相談を受けた時に「旦那さんと話し合ってみたら…?」と促すぐらいが関の山だ。

 

現代社会では会社・法人も人権享有主体として認められる以上、ファミリーマートが「お母さん食堂」と銘打って商品展開することも表現の自由であり、そのネーミングに無意識レベルで「料理は母親がするもの」という観念が存在しているとしても、そこに不法性も不適切性もない。
それに対して僕達は、それを受け入れられないとしても「ファミリーマートさんはそういう考え方なんですね」と自分の中でケリをつけるところまでしか、24条は認めていないといえる。
署名活動はそれを超える行為だから、反対派が敏感に激しく反応したということだろうと思う。

日本国憲法下では、政治が解決せねばならない社会問題でも、24条を根拠に「それは根本的には家族の問題に起因することだ」と矮小化してしまえば、国はその問題を無視できる。
日本国憲法は、制定当時は世界的にも先進的な憲法だと謳われたが、いくつかの条文は制定意図まで探ってみると、上手に国が負うべき義務・責任を回避するように作られている。
この憲法が73年運用されてきた結果が、今の社会分断を引き起こしているんだろう。

 

では、今回の署名活動は、日本国憲法の保守的な側面を最大限に加味すれば、違法とまではいかないが、不適切であるとは評価されるだろう。

ただし、これを不適切だと言われれば、自己の意見を社会に反映し、より住みやすい社会を作ることは困難であり、家族以外の問題であれば正当な方法であるということと整合性も図らなければならない。

そうすると、今回の署名活動は表現の自由として保障されるものではなく、自然権思想そのものから導かれる抵抗権の行使の一種であると評価すべきではないだろうか。女性の現代社会に対する叛乱ということであれば、それを憲法内の規範で「悪だ」「不適切だ」と攻撃することは意味をなさない。

このような叛乱が、今後の日本社会を変えていくことに繋がれば良いと思う。

尊厳死なんてありえない(医師によるALS患者薬物投与殺人事件について)

ALS患者の依頼受け薬物投与 殺害か 嘱託殺人容疑で医師2人逮捕 | NHKニュース https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200723/amp/k10012529561000.html

 

個人的には薬物投与という殺し方がダメなんだろうと思う。

 

薬物を投与することは生理機能を変化させるれっきとした侵害行為なんだけど、医師はそれにあまりにも慣れすぎている。「自分には相手を苦しませずに殺す能力がある」と思えば、当然相手の苦しみ、死の願望に同調しやすくなる。


国家が医師に医療行為を行う免許を与えたのは、患者の希望に基づいて生存可能性を拡大するため(生かすため)だ。決して、殺すための資格ではない。
だから、医師が患者側に立って、患者と共に死に対峙する緩和ケアやホスピスには誰も文句を言わない。
しかし、苦しんでいるのを楽にするためとはいえ、その知識や身分を殺人に使うのは単なる免許の濫用ではなかろうか。

 

医師免許を持たない僕が重度ALS患者の「死にたい」に同調するなら、薬物投与は医療行為だから僕にはできないし、そもそも薬物を合法に手に入れることもできない。素人だから、殴るか、刺すか、首を絞めるか…練炭を炊くのが楽に死ねると聞いたから、それがいいかもしれない。でもどんな方法でも社会全体から猛烈に非難を受けるに決まっている。だって、殺人は社会的にやっちゃダメとされる行為だもの。

 

「患者が死にたがってるし、いつも生死に直面している医者が患者を苦しませずに済んで楽に殺せる方法だと思ったのなら…」なんていうのはむしろ尊厳を軽んじたナンセンスな議論だとさえ思う。
例えば自家用車で60キロ位でぶつかるよりトラックで200キロでぶつかったほうが比較的楽に死ねるだろう。つまりトラックの運転手は一般人より楽に人を殺す能力がある。だからといって同意殺人していいかっていったら、そんなのダメに決まってるでしょ。だって運転免許は人を殺すための免許じゃないもの。医師免許もそれと同じ。
尊厳死を法制化することは、医師を神から死神に貶めることに等しいし、僕はそういう議論を興す事件には同調したくない。
どうしても必要なら、医師とはまったく別の資格や制度を作るべき。

 

 

ということで、医療行為による人命の剥奪、すなわち「社会一般の通常人が有する程度を超えた医学知識を用いた手段、又は医師の身分を用いなければ適法に遂行することができない手段による人命の剥奪」は罰せられないといけない。それは免許の趣旨からいって単純にそうとしか考えられない。


同意があろうとなかろうと、一般人ができる範囲の方法で、「ほんとうに自分は人を殺していいのか」という社会倫理規範にきちんと直面した上で、究極の選択をしてほしい。

■アンジャッシュ渡部だけが悪いのか

 

妻の貞操義務は大宝律令(701年)から続いている。

夫の方ももちろん大宝律令で規定されてはいたが、妾はOKとされていた。この不平等は明治時代になって、一夫一妻制の世界標準のプレッシャーと、そして平塚らいてうとかが男女平等を訴えてようやく男にも貞操義務があるという判例(1927年らへん)ができて、民法改正に至った。

おなじ貞操義務といっても、歴史的には女にはあまりに重く、男にはあまりに軽い。

しかもこの完全な一夫一妻制のために妾制度が廃止されたことは、男の女の外注ニーズを高め、女が自発的に娼妓をやっているんだという性風俗の文化を公娼制度にまで発展させてしまった。
それが戦時中の慰安婦問題を引き起こしたのは言うまでもない。

僕はそもそも今の婚姻制度が両性にとって本質的に平等だと思っていない。
女性に貞操義務があるのは父を定めなければならないからだが、国家が子の育成のためのあらゆる行政サービスを十分に提供するならば、父を定めて扶養義務を履行させたり、共同して親権を行使させるのは必ずしも必要がないようにさえ思う。

もちろん渡部は悪い。
命を削って生命を育む女性という存在に対する敬意が足りない。
しかし、男にはそれは絶対に経験できないことだし、そもそも生殖の知識がなければ父親だと自認することもありえず、父性というもの自体も自然には存在しない中で個人を非難するのも違和感を拭えない。

これらを解決するに常識的な提案をするならば、親権、相続、姓、扶養、同棲、行政サービス、家族をめぐる様々な諸制度においてより多くの選択肢をチョイスできるようにするのが望ましいと思う。

ただ僕はそんなに常識にこだわる必要もないと思っているので、法律婚そのものをやめたらいいんじゃないのと思う。

アスペルガーの「絶対に謝らない」その思考について

■覚書(2)──アスペルガーの思考方法について

定型発達者は自己の行為が相手にどのような効果をもたらすかを推定するとき、客観的に判断される行為と相手に与える効果が結合していると考えることができる。
これは主観と客観を分離して考えることができるからだ。他人Aから他人Bに対してなされる行為とその効果を関連付け、なおかつそれを自己の行為の客観面に当てはめて、その効果を推定することができる。(行為―効果結合)

これに対して、アスペルガー者は主観と客観が未分離のまま事実認識をする。彼らは自己の行為が相手に与える効果を自分の感情に基づいて計算する。(意思―効果結合)

アスペルガー者の「意思―効果結合」に由来する問題行為は下記2つに大別できる。
①対対象者行為
②非対対象者行為

■①対対象者行為について
好きな相手に社会常識的に合致した優しい方法でアプローチできる人もいれば、それ自体支離滅裂な人もいる。前者は軽度のアスペルガー、後者は重度のアスペルガーといえる。
重度の例で、毎晩深夜3時ごろに眠っているところをライトをつけて音楽を大音量で流し、被り物をかぶって踊るという人間がこの世に存在するらしく、しかも本人はそれを相手のことを好きだからやっており、相手も楽しんでくれると考えているようだ。
無論、される側の人間にとっては単なる安眠妨害でしかないので大変不愉快なわけだが、それで怒ったとしても、アスペルガー者はなぜ怒られるのか全く理解できないので基本的に謝らない。
軽度の例では、関係性に比して異常に優しすぎる場合があり、とても魅力的にみえるが、下記の非対対象者行為では問題を抱えているので注意しなければならない。

■②非対対象者行為について
必ずしも対象者のためにするわけではない行為については、自分の内心として対象者を損ねる感情が一切ないので、対象者が傷つくのはおかしいと考える。これは軽度重度問わず、アスペルガー者のほぼ全員が持っている考え方で、 これに周囲の人は悩まされる。

例えば僕が作った料理に相手が「おいしくない」と言ったって、それは料理という「僕以外のモノ」に対して言っただけで、「僕」を傷つける気持ちはない。むしろ作ったこと自体には感謝してたりする。だからそれで「僕」が傷つくのはおかしいと考える。

しかし僕からすれば、その料理は相手を想って作ったものであり、いわば僕の分身なわけで、それをけなされればもちろん傷つく。
料理のような物質的なモノだけでなく、作文、モノの考え方などの表現に対しても「対象者以外のモノ」と「対象者」とに区別して評価を下すことがある。

人間関係においても、非対対象者行為は問題となりうる。
重度の場合、対象者のことはもちろん好きだが、対象者以外に好きな人(要は浮気相手)を作ることがある。
浮気相手と付き合ったとしても、対象者のことも当然愛しているから全く別であり、浮気相手という「対象者以外のモノ」と親しくしたとしても、「対象者」を傷つける意図が本人にない以上、それで対象者がショックを受けるのはおかしいと考える。
本人の主観としては「別モノ」で、主観と客観が分離していない特性から、「別モノ」であることは客観化され、「そんなかんたんなこと、対象者もわかるだろう」などと考え、まったく悪びれることがないし、悪いと思わないから浮気を繰り返す。


一般人からすればこんな考え方は本当に信じられないし、その行為は単純に不愉快だし許されないことだ。
しかし、これを厳しく責任追及すると、(自分が悪いということがわからない)アスペルガー者は理不尽な攻撃と受けとめ、自分こそが被害者だと主張する。
責任追及してる側が「むしろほんとに自分のほうが間違っているのでは?」と自信がなくなり、最終的に人格や尊厳そのものを損ね、精神異常を来す。
どんなに酷い異常が出たとしても、アスペルガー者にとっては「自分と関係なく相手の考え方がおかしい」ので、他人行儀な態度に終止する。

彼らにこちらの気持ちをわかってもらおうと思っても、彼らは主観客観が分離していない以上、相手の立場に断って物事を考えることができないのでその努力は徒労に終わる。

この話の通じなさにいよいよアスペルガーを告知しても、アスペルガー者は自分はそれに該当しないとして、その可能性を認めない。
これも、アスペルガー者としては自分なりに客観視したところ、自分にはおかしなところがない(主観が混じっているから当たり前)から、「相手の気持ちがよくわからない、言葉の裏が読めないといってもそれは相手の思考能力や言語表現能力に問題があるからわからないのであって自分がおかしいからではない」と考える。
アスペルガー者にアスペルガーであることを気づいてもらうことは最も困難といえる。

「自閉スペクトラムには切れ目がない」←これのせいで被害者が増えている

■覚書(1)──アスペルガーの言語能力について

アスペルガー症候群(AS)は言語能力に問題のない自閉症スペクトラム障害だと言われるが、僕はそれなりの数のアスペルガー(未診断・疑いを含む)の人たちと接してきた上で、そのような言語能力についての説明にも懐疑的である必要があると感じている。

言語というのは意思疎通のためのツールであり、意思疎通とは自己の内心が相手に伝わり理解されることをいう。
そうであれば、そのツールである言語について求められる能力は、単に文法規則を理解するというだけでは足りず、自己の内心を相手に伝え、相手の発話から相手の内心を読み取るということまで当然に含まれると解釈すべきではないだろうか。

もっとも、これに対して、「文法規則を理解して文章を組み立てることのみが言語能力であり、意思疎通の機能は意思疎通能力(コミュニケーション能力)の問題であるから、アスペルガー者は従来どおり、言語能力に問題はないが、コミュニケーション能力に障害があると解釈すべきだ」という批判はもちろんあるだろう。
しかし僕が上述のように解釈すべきだとするのは理由がある。
従来の解釈が、定型発達者がアスペルガー者と衝突を抱えたときの「言葉が伝わるんだから説明を尽くせばきっと理解してくれるだろう」という余計な期待を生じさせており、それが両者の無用な人間関係の崩壊を招来していると感じたのだ。

自閉症スペクトラムはコミュニケーション能力のグラデーションであるから、完璧なコミュニケーション能力を有している人間など存在しないし、定型発達と自閉症スペクトラム障害の間にはどこかで線を引けるものではないというのが現在の通説的な理解だ。

しかし、僕が幾人かのアスペルガー者と接触を経て思うには、定型発達者とアスペルガー者の間には、その利用言語について明確な性質の断絶がある。

僕の元妻は、アスペルガーとの診断は受けていないものの、実の母親から「この子は発達障害だ」とほとんど断定的に推定されていた。
また僕よりずっと良い大学の出身で知能の遅れはないので、アスペルガー者であると推定される。

そんな元妻とのやり取りの中で、今でもよく心に残っている会話がある。

僕は当時SuicaPASMOの両方を持っていて、その他回数券やよく使うポイントカードなどをパスケースに入れて使っている。
僕がそのパスケースをその時その時でPASMOSuica、定期入れ、カードケース…などと様々な呼び方をしていたことは彼女ももちろん承知しているはずだった。

ある日二人で出かけるときに、それを家に忘れてきてしまったので、「PASMOを忘れたからとってくる、追いつくから先に駅に向かっておいて!」と話し、取りに戻った。
そして再び合流したときに、元妻が「今日はPASMOで行くんだね」と話しかけてきた。
僕は虚をつかれ、返事を濁してしまった。

僕にとってはパスケース全体のなかの一代表物としてPASMOといったに過ぎない。
共同生活を送っていれば、「僕の持っているPASMO」はパスケース全体を指すことは容易に理解されるはずだった。
しかし彼女にとってはPASMOといえばまず第一次的に「一枚のICカード乗車券PASMO」だから、「今日はPASMOで行くんだ」と考えたのは当然のことだった。
PASMOが1枚のカードだということは、まぁ世間一般に認識しうる意味はそれであり、間違っていない。

これがどういうことかといえば、アスペルガー者は主観的に理解した言葉の意味を、目まぐるしく変わる客観的状況によって修正することができないということだ。
上記の発言は、彼女の主観として取り入れられた一般的なPASMOの認識が共同生活という客観的事情によっては修正されなかったことを意味する。
つづいて、説明をすれば「あぁなるほどたしかにそうだよね」と、客観的状況で修正された意味を理解する言葉が出てくるかもしれない。

PASMOという言葉の認識の仕方一つをとっても、僕と彼女の間には大きな隔たりがあったわけで、彼女の言語能力に障害がなかったとは言い難い。
同じ日本語、同じ単語を使っていても、方や彼女のそれは主観客観混和言語であり、方や僕のそれは主観客観分離言語と言える。
プログラミング言語で例えるならば、この両者間の言語の差異は、語句という変数のデータ型がint型かstring型かという以上に大きい。

ゆえに、「言葉が通じるならば理解してくれる」という期待が生まれるわけだが、明らかに使用している言語の性質が違う以上、それは幻想に近い。
より複雑な構造を持った文章で意思疎通を測れば、事実や内心について両者は全く異なる認識をもつことは明白で、それを修正することなど不可能だ。
混和言語は、主観と客観の分離ができないからこそ形成される。
それを分離させて理解させようとするのは盲者に前を見て歩けというくらい酷で苦痛で拷問になる。
話し合いをすること自体がアスペルガー者にとっては嫌がらせにしかならない。

よって、自閉スペクトラムを「境目のないグラデーション」だと説明するのは、たとえそれが医学的には正しいかもしれなくても、社会生活上は定型発達者とアスペルガー者の対立を必要以上に、また深刻に激化させるものであり、悪影響が大きすぎる。
グラデーションだと捉えると、相手をアスペルガーだと認定することも困難で、困難である以上定型発達として取り扱うしかなく、トラブルが起きてもまず話し合いで解決を試みてしまうが、これこそがアスペルガー者に対して最もやってはいけない接し方なのだ。
そしてグラデーションと言われれば、一つ一つの事案があまりにも個別具体的になりすぎて、他者の事案を自身の事案に適用することも困難だし、周囲がアドバイスもできない。

むしろアスペルガー者も定型発達と全く同質の言語能力は獲得していないと認定して、その帯のどこかの地点に言語能力障害の有無によって明確に線を引くことが、上記の期待を発生させないために、また相互理解のために便宜がある。
区分して、両者の相違を明確にすると、相手がアスペルガー者であるか否かは判定しやすく、また定型発達とアスペルガーを明確に対峙させることによって対処法を一般化することのほうが、解決の糸口が見えやすい。

アスペルガー者は「言葉の裏側を読み取れない」といわれるが、定型発達が言語によって表したいものは常に自己の内心であり、それを表現するためには発した言葉の事実と合致していなくてはならないとは必ずしも思わない(冗談、皮肉など)し、むしろその手法こそがもっとも内心をよく表している。
そういうわけで、アスペルガー者は言葉の裏側ではなく表側が読み取れないというのが正しい。

医学生に免許なき医療行為を認めるのは問題

免許ない医・歯学生も医療行為OK 厚労省が法改正へ:朝日新聞デジタル

https://www.asahi.com/sp/articles/ASN5G63QCN5FULBJ01M.html

免許をもたない医学部や歯学部の学生も、患者に医療行為をできるようにする――。厚生労働省は13日、医師や歯科医師の養成に向けた新たな仕組みを整える方針を固めた。指定された試験に合格することを条件に、学生が「実習」の枠組みで診療に参加できるようにする。今後、医師法歯科医師法の改正に向けた準備を進める。


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「指定された試験に合格することを条件に」ねぇ…
大学5〜6年生は見るだけでいいと思うし、この試験に合格できなかった医学生は、同級生が医療行為やってるのを横目でみてるしかないんでしょ?
ものすごく劣等感あるし、教育側もやるべきことのRangeが広がってしまうからよろしくないと思うけどそんなことしていいのだろうか。

じゃあ5年生になったら一律OKだったらいいかというと、医師国家試験で禁忌選択肢の入った問題が出題されるというのは、その選択肢を選んでしまうような倫理的にアウトな人間を医療行為に参加させない趣旨なんだから、医学生だとしてもやらせちゃダメ。

結局国家試験合格後の実習・研修を充実させるというのがもっとも平等なんだけど、それは国家予算が足りないんでやらないんでしょうな。

韓国ゲイクラブのコロナクラスター問題に婚姻制度の欠点が集約されている

韓国ゲイクラブで何が起きていたのか?《クラスター化でコロナ再流行の危機》
https://news.livedoor.com/lite/article_detail/18245032/

>クラブの利用者がアウティング(本人の望まないカミングアウト)を恐れ、防疫当局の調査に応じないケースが続出している。
>防疫当局によると、約5500人のクラブ利用者のうち2000人ほどが虚偽の連絡先を残し、連絡が取れていない状態だという。
>防疫当局は、携帯電話会社とカード会社にデータの提出を要請し、警察からも協力を得てクラブ利用者全員を捜し出して検査を受けさせる方針だが、現状は厳しい。


このセンセーショナルなニュースは、LGBTに対する寛容の風潮を巻き戻してしまう効果を持っているだろう。
未知な感染症から自身や大切な人を守るためには、そのクラブに参加してクラスターの中にいたと思われる人間に検査をうけてもらわなければならない。
参加した者の責任としてそれに協力することは社会通念上当然なのに、自分が性的少数者であることのアウティングを恐れて協力しない。
もちろん国家がその情報を把握することもプライバシー権の侵害に当たる恐れがあるのだから、必要最小限度の権利制約に留めるべきだろう。

しかし、そうだとしても、多くの人は、(性指向という要素や文化的な側面から同族だけで集結したがる)セクシャルマイノリティに何らかの権利を認める必要があるとは考えないだろう。
むしろ、「ああ、歴史上多くの宗教が同性愛を禁じていたのはこういうことだったのか」と悟ったのではないか。



これらの一般多数人の思いに反して、よくよく考えてみれば性的少数者の性指向そのものを否定する必要はない。
今般の本質的な問題は「同性愛者が病気を広める」のではなく、「誰しもが感染症拡大の火種になる恐れがある中で検査に協力できない事情があるから病気を広めてしまう」というのが現状であるからだ。

むしろ同性愛その他少数性指向がより社会的に認められて、性指向を公言しても不利益とならない社会を作ることによって検査への協力が積極的に行われれば、少数性指向自体を否定すべき理由はない。

そのような社会を作るには、やはり法律による婚姻を廃止するしかないように思える。



なぜ「同性婚を認めよう」という話にならないかといえば同性婚を認めたところで国家からの取り扱いに対しては異性婚と同様の法の適用を受けうるけれども、社会からの同性愛者の取り扱いはさして大きな変化は生まれないだろうというのがその理由だ。
逆に「自分たちだけでは子孫を反映させるということができないのに、同性愛カップルに異性婚と全く同等の利益を認めることが本当にいいことなのか?」と訝しむ人すら現れるだろう。

社会全体の風潮を変えるにはまず「結婚が法律上承認されていることが愛の究極形である」という夢想を破る必要がある。
婚姻届を提出していない事実婚夫婦に愛がないとは言い切れない。
同性による関係結合も、どちらかというと事実婚の延長線上にあるはずのもので、そちらのほうがいろいろと自由が利くと思う。

うまくまとまらないが、誰もが婚姻から自由になることが、性的多様性を認める唯一の方法だといえる。

医学部定員制批判

日本医療界の不整合について


■結論
簡潔にいえば、日本医療の臨床・研究・教育の多忙さの原因の元をたどれば、医学部定員制に尽きるという言のほかない。それが厚生労働省の医療政策をゆがめ、医療者と国民の医学知識の非対称を生み出し、医療者から教養を奪い、医療者を疲弊させている。

■序
正直にいえば、日本の医学部・医療界は世間一般の常識がすべて通用しない。
本来、医師は賢者である。統治論を著したジョン・ロックは医師でもあった。彼のごとく、哲学や社会思想は「人とはなにか」をよく知る者が拓いていくべきだ。
しかし、日本の医師は医学については最高の知識を持つけれども、それ以外の知識、いわゆるリベラルアーツ・一般教養については、他学部で教育を受けた者に比べて明らかに劣る。何らかの想いは必ず持っているだろうが、それを昇華しようというところにまで至らない。個人の趣味の範囲がどうというレベルではない。これには、彼らが受けてきた教育や環境に原因があるとみるしかない。
そこで、医学部・医師の関係と、その他の学部・専門職の関係とを比較しながら、それを示し、医療界の異常さが臨床・研究どちらの現場にも負担を強いていることを簡単に考えてみたいと思う。

■士業の場合
たたえば法曹の場合。
日本では司法試験に合格後、司法修習の段階がある。司法試験に合格しているのだから、修習生には法律的な基礎知識が十分ある。ただ、司法試験に合格した段階では、事実がはっきりしている事例の法適用についてしか学んだことがない。断片的な証拠や事実にどうやって法を適用していくかという実務の知識はない。司法修習の授業はその足りない部分にフォーカスして行われる。教官も法律的な基礎知識が足りないことで理解が出来ない修習生の面倒を見る必要はない。日本ではこの司法修習を裁判所が公費で担い、他の国でも類を見ない高水準の法曹養成システムを維持してきた。ただし、旧制度では2年の修習期間だったものの一部をロースクールでの教育に回す建前で、現行は1年の修習になっているが。
いずれにしても、これだけのことをするには予算が限られる。法曹を増やすために、外国にならってロースクールを構想したとしても、その後の司法試験で合格者を拡大できるわけではなかった。予算制約を、司法修習給付金を貸与金にしてでも破ろうともしたが、やはり修習後の就職口がなく、借金に追われる弁護士の貧困が問題視されることとなった。結果、ロースクール生がそのまま全員法曹になるという構想は失敗した。他国でロースクール制度が機能しているのは、合格後の実務教育をそれぞれの法務機関にまかせているからだろう。民間弁護士事務所が実務の中で教育をする程度にとどまるなど、決して法曹としての質の水準を一定に保つような制度にはなっていない。
いずれにしても、我が国では、旧司法試験制度では、法学部で学んだ経験のある無しに関わらず法務省の実施する司法試験の合否のみで判定することとしていたし、新司法試験制度に移行した現在でも、ロースクール以外のルートとして予備試験を用意することとした。
このような座学の先の、実務研修段階における問題は他の資格でも見られる。たとえば公認会計士では2006年前後に国の政策で会計士を増やそうと、アカウンティングスクールなども多数設置され、合格者数も2〜3倍に増やした。しかし、その後3年の補習所研修が必要だが、その研修を担うべき監査法人がその人数を受け入れきれず、就職難民が大発生した。それにより、会計士試験を受ける人が激減してしまった。それにも関わらず、同じ頃、会社の内部統制監査と四半期開示が本格導入されるなど、会計士が関わるべき業務は確実に増えた。結果として、監査法人に勤務する会計士の忙しさがより深刻なものとなり、人手不足の状態に陥っている。

■医師の場合
さて、これら人文の士業と大学の関係にも様々な問題はあるものの、医学部とは事情が異なる。
これらの資格は大学教育と完全に結びついているわけではなく、その結びつきは専門職大学院のレベルであるし、また専門職大学院を経なくてもその資格を得ることは可能である。法学部の学生が全員法曹にならなければならないわけではない。経済学部・経営学部の学生が全員会計士・税理士にならなければならないわけでもない。ところが、医学部となると、医学部生全員が医師になることが前提され、医師国家試験合格後も研修は大学病院または厚生労働大臣指定の臨床研修施設で行われる。他に職業と教育が関連しているものと言えば僧侶が挙げられるかもしれないが、僧侶は国家の資格ではないので問題とならない。
現代において職業資格と教育が最も密接関連しているのが医学部といえる。そして、医学部での教育を受けないことには医師国家試験を受験することはできない。外国医学部を卒業して予備試験を受ける方法もあるが、それはごく例外にとどまる。
また、日本は国民健康保険制度の関係で、医師の数・質を確実に確保する必要もあった。そのために日本が採った手法は、医学部定員の管理であった。これによって医学部は医学教育だけでなく、日本全体の医療提供体制に対しても一定の責任を負わなければならない。だからこそ、他学部でも行われるような一般教養の教育は、医学部では入学後1,2年目の早い段階で切り上げられて、それ以降は職業人たる医師を養成するための職業大学にならざるを得ない。
浜松医科大学の大磯義一郎教授がいうには、医学部一年生の中には入学時点で心臓の絵(左右の心房・心室に分かれた図)が書けない学生もいる。そういう学生も含めて、一人前に育てなければならない。その上、アメリカならば大学とメディカルスクールで計8年かかるところを6年でやろうとする。最近では以前のように夏季休暇を長期にとれぬほどになってきているという。これで、一般人と同じだけの教養までも医学部生に習得させようとするのは、土台無理な話といえる。
もし、法学部も医学部と同じような制度になっていたらどうだろうか。司法修習の予算が決まっているからといって、法学部生のみに司法試験を受ける資格を制限し、日本全体の法学部の定員を定める。現在の法学部は、法哲学や経済法、法学史、法と経済学、社会法その他もろもろ基礎教養科目など、司法試験には無関係の様々な講義を開いている。しかし、法学部生は司法試験のための法律しか学ぶ必要がなくなるから、それらの講義は閉じられるだろう。そもそも法学部だって、ヨーロッパで大学が成立した当初は専門職を養成するための学部だったが、現代でそのような方針に回帰することには、大多数の人々が否定的な感情を抱くだろう。
医学部は当初からこのような特殊な状態にある。我が国では、ヒポクラテスの誓いが畏れ多き呪いとして作用し、医療界は医術伝道の師弟関係に対して国家の介入さえを排除してきた。その分、学府全体として6年間つきっきりに教育に集中しなければならない。教わる側は6年で済むが、教える側は継続して体制を維持し続けなければならない。
たしかに、医学における師弟関係それ自体は、医療行為が人体に対する侵害的性格を持つことから多少なりは必要であったことは認められる。しかし、大学教育だけの中で完結させてしまうことについては、別に医師国家試験というハードルがある以上、必ずしも合理的な理由が見当たらない。
さらに、0から100までを医学部が行うからこそ、医学部が親としての権力を持つ。臨床現場の医師配置さえも各医学部に委ねている。

■翻弄の様子
反面、医療提供体制については、いくら医学部が権力を持つといえども全責任を持てるわけではない。医学部が一つ一つの町のクリニックを管理することなど非現実的だ。それは厚生労働省の管轄だ。しかし、厚生労働省の提案する医療政策が必ずしも最良のものにはなっていない。
現在の日本の医療費の問題は高齢者増加が原因と一般的には考えられている。他には医療技術の進歩による高価格化もあろう(CTの多列化、オプジーボゾルゲンスマの例)。しかし、それだけで厚生労働省が現状の医療政策(「医療から介護へ、病院・施設から在宅へ」)を採用するわけがない。なぜなら病院や老人医療施設を作るほうが在宅医療よりもはるかに効率的だし、日本人が絶滅しない限りはそのような施設は必要とされ続けるのだから、本来なら道路のように建設国債を使ってでもそうしたほうが、絶対に良い。人口が減少するのであれば、老朽化した施設を建て替えたりせずに自然に潰していくだけで良い。
もし厚生労働省が医師・看護師等を自由に養成できるのであれば、このようにするだろう。しかし現実にはその能力を厚生労働省は持っていない。ハコを提供することはできるが、ヒトを提供できない。このように、厚生労働省が政策選択を誤り続けてしまう決定的な原因は、彼らが医師・看護師等専門職種の養成能力を持たず、人的資源を国民に提供したくてもできないことにある。
ゆえに、厚生労働省は診療報酬(広義的には新専門医制度も含まれる)の操作によって医師の「偏在」をコントロールしようとするのだ。医学部定員制によって、医師の養成権限の一切を医学部に委ねてしまったから、厚生労働省にはもはやどうにもできない。医師の居場所や働き方を利益的に誘導するしか方法を持たない。それが地域包括ケアシステムや、コンパクトシティ構想を生み出し、都市政策そのものにも影響をおよぼすこととなった。地域での見守りなど、全く余計なお世話という他ない。
その余計なお世話が、最悪なことに医学部教育にも影響を与えている。
医師が他の分野の教養に疎い一方で、医学の知識は医学部や看護学部に独占されている。医療職を目指さない一般人には医学を体系的に学ぶ場所が全くない。一般的な会社のなかに医学の専門知識を有している会社員がいることはほとんどない。医学そのものが一般教養にのってこない。インフォームドコンセントの徹底だの、患者・国民教育が大事だのと論じてみても、医療に対する不安が拭えない。その原因は、医学知識のなさにある。知識も無ければ学ぶ機会もないから、医療者の人柄のみにすがりたくなる。この現実を受けて、臨床重視型の医師の養成の方針が厚生労働省によって政策的に規定され、医学部教育の内容も影響を受けてきたといえる。厚生労働省は、医療従事者を地域に溶け込ませようとしているし、医療従事者自身も、自分たちこそが人格者となって地域に受けいれられなければと思いこんでいる。
医学部は医術教育を独占する一方、医療政策については提言する機会を持たないし、そもそも提言できるほどの知識すらほとんどないといっても良い。社会保障政策においては逆に国家に服従せざるを得ないという状況さえ生み出してしまった。かくて、医術以外の「よりよい人間」としての教養を求められることとなった。全人的医療などというわけのわからない標語にどれだけの医師が苦しめられていることか。
大学は広く学問の場であり、職業者の養成所ではない。医学部は医師の養成を(積極的か消極的かは分からないが)一手に担い、完全に特殊化している。一般教養を組み込む余地は一切なく、それを求めれば負担が相当に過大にならざるを得ない。
昨今、大学を「世界的研究・教育拠点」、「高度な教養と専門性を備えた人材の育成」、「職業実践能力の養成」などと機能分化させようとする政策が問題視されている。
2000年代初頭には、文系・理系の垣根を超えて、それぞれの学問の垣根を超えて新しい知を想像することが国の教育行政の方針として掲げられていた。しかし、このように大学の機能を区分してしまえば、その機能ごとに必要な基礎教養の内容も変わってしまう。すると、ひとくちに大学生と言っても、その両者が共通の知識や教養を持たず、学問的コミュニケーションに齟齬が生まれ、学際的研究を阻害する可能性がある。
これが問題視される理由は、ひょっとすると医学部教育者にはあまり理解されないかもしれない。教育・研究の場を職業訓練所として利用することは、まさに日本医学部では昔から当然に行われていたのだから。そのような仕組みを文部科学省厚生労働省が作ったのだ。

■改革モデル
上記の問題意識を踏まえ、士業養成のプロセスを模倣するならば、医師養成と医学部の関係は、たとえば以下のようになろう。

① 医学部について。医学を学びたい人は誰でも医学部行って、医師になりたければ厚生労働省が行う国家試験を別に受ければいい。看護師になりたければ看護師試験を受ければ良い。介護士になりたければ介護福祉士試験を受ければ良い。そういう専門職にならないとしても、一般社会で医学の知識を持った人間として活躍すれば良い。
② 医師養成について。基礎医学の段階で医学部生以外も受験可能な医学試験を行う。(医学部生は一部または全部の科目を免除)
③ 合格者は臨床医学修習生となり、厚生労働省の所管事業として、臨床医学と実習を行う。実習は研修事業について交付金補助金を受ける医学部または厚生労働省独自の臨床医学修習病院で行う。
④ 臨床医学も含めた修了考査を行い、合格者に医師の資格を与える。(その後の研修医制度は現行の通り)
⑤ 日本では、異常な残業時間を黙認せねばならぬほど深刻な医師不足であるし、公的医療保険によって一定の報酬が確保されているから、士業のように就職口に困るということはない。したがって臨床医学実習期間は所得状況により貸与制でも良い。

上記は単純に士業をなぞっただけだから、必ずしもこのようにある必要はない。私自身、医学教育の部外者だが、この流れの場合解剖学をどうするかなどの問題があることは承知する。それに、医師養成能力を厚生労働省が獲得するだけでよいのなら、ここまで大胆に変えなくとも良い。たとえば、防衛省防衛大学校を独立して持つごとく、厚生労働省臨床医学大学を設立するなどして、医学研究とは全く別に、自前で臨床医師を養成する機関を持てば良い。
しかし、これら改革案の内容の正しさや実現性は、今は問題としない。私は、現状の医学部と医師の関係が普通でないことを指摘したい。とにかく、なんらかの構造変革によって医学部を医師養成の重責から解放し、研究・教育に集中するのがベターと考える。
このような改革をするには、医学部が保持している権威を解放する必要がある。が、当の医学部が激しく抵抗するだろう。親権剥奪に相当するのだから当然だ。しかし、権威を持つべきなのは医学部ではなく、それぞれの医師個人であるべきだ。
まぁ、いずれにしても、現実はそのようになっていないのだから、医療者個人の努力不足・教養不足を責めるのは全く的外れなことだとの結論が得られそうだ。

■傍証
ところで、かの小泉政権は一年間に2000億円ずつ医療費を削減することを宣言し、実際にそうした。第二次安倍政権では「高齢化に伴う自然増を5000億円以下に抑える」という言い方で、医療費を抑制してきた。高齢化に伴う自然増は、年間1兆円と言われている。つまり安倍政権はこの6年間、毎年5000億円ずつ医療費を削減していることになる。世間では今でも小泉政権医療崩壊の仇のように扱う傾向があるが、実際には、安倍政権のほうが金額ベースで2倍以上も恐ろしいことをしている。
消費税が5%から8%に増税されたときも、悲惨なものであった。増税差分3%を診療報酬に上乗せする形で改定がされたが、実際には算定頻度の少ない点数だけを増点するなどし、医療機関の利益減少分の補填には完全には貢献していなかったとの指摘がある。
大学病院のようにDPC制度による診療報酬算定をしている場合でも、総じて減収になっていよう。診療報酬は総額としてほとんどゼロ改定ではあるが、医療に係る物品の医療機器の仕入れは高性能化に伴い高額になってきている。すべての医療機関で、医療従事者の賃金が上がらないのに、より多くの業務をこなすことを求められ疲弊していることは、現場を見ずとも論理的に明らかであろう。
そして、臨床も、研究も、医学部の中で行われるのであれば、研究に支障が出るのも当然のことといえる。

父系婚姻制度では両性の本質的平等は達成できない

 

ライオンの群れの中のメスに子供がうまれた時、オスライオンはその子の父親といえるか?
そう聞かれれば、「群れ以外のオスがメスをだまくらかして交尾でもしない限りは、そりゃ父親だろう」というのが人間の考え方だが、僕がいいたいのは、そういうことではない。

というのも、ライオンが人間と同程度の知能を備えているわけがなく、生殖のメカニズムをライオンが理解しているとは考えにくい。自分の交尾行為によって、子が発生したと考えるはずがない。確かにオスは生物学的父ではあるけど、自身には「オレと血の繋がった子だ」という認識はありえず、せいぜい「なんか群れの中のメスに生まれた子ども(ただしニオイは自分に似ている)」程度の認識に留まると考えるのが自然ではないか。オスは、群れという社会の関係では、子供の面倒をみる(外敵から守ってやる)監護権者ではあるけれど、父親ではない。

この意味では、一雌一雄を基本単位とする動物(ペンギンなど)でも、複雌複雄の群れを形成する動物(サルなど)でも、オスは子供の父親ではなく、母親のパートナーでしかない。子育てをする動物の社会において親は母しか存在しない。もし家系図を書くなら、母を中心とした母系ツリーになる。もっとも卵生の場合、母親も本当に母親かどうか危ういけれど(カッコウの托卵)。

そうすると、人間はその知能で、そのメカニズムの詳細はわからずとも「ヤればデキる」ということを発見できたので、父親という概念を発明した唯一の動物であるといえるだろう。このことは何年か前に話題になった本「サピエンス全史」にも同じようなことが書かれているらしいので、誤ったアイデアではなかろうと思う。

1人の男を子どもの父親と推定するためには、男女ともに、1人の相手以外と性的関係を持たないというルールを前提とすることが必要だ。厳密には、女が一定期間1人の男としか性交しなければそれでよく、男側は別の男女のそれを破らないという副次的なものにとどまる。(モーガンが提唱し、エンゲルスが紹介し、高群逸枝が古代日本について適用したように)原始の時代には群婚・乱婚という名の無規則な男女関係による社会結合や、1つのコミュニティの複数の男が穴兄弟で分割父性を観念した時代や民族があるかもしれないが、人間が生殖と妊娠の秘密に気づいた時点からは、一夫一婦制が始まったと考えるのが妥当ではなかろうか。
一女一男の基本単位を前提にすると、仮にその相手以外と性交し子どもが生まれた場合、夫が生物学的父ではないとしても、社会関係上では夫を妻の父とする擬制を行うことができる。このように、母はどこまでいっても母であるが、父は生殖の知識と何らかの社会(基本は最小単位たる一対一)を備えなければ発生しえない存在といえる。生物の理からすれば、夫が妻の子に果たさねばならない義務というものは妻を介した間接的で希薄なものでしかなかったが、人間は彼にかの子に対する義務を直接的に負わせることが可能となった。
これまで母系的にしか祖先を辿れなかったが、父系的も辿れるようになった。
古代日本社会が母系的か、父系的かという議論は、柳田国男が奈良・平安時代も一貫して父系だったと唱え、それに対して在野研究者の高群逸枝がその時代も母系だったと激しく反論し、大論争を巻き起こした末に、吉田孝が奈良・平安時代はどちらが強いというわけでもない双系的社会ではないかと折衷説を提案し、一般的通説となっているとのことだ。
なお、この論争では高群の平安・奈良時代の資料改ざんが発覚したりもしたのだが、それでも彼女の反論により、「家父長制はせいぜい平安時代大宝律令制定ごろまでにしかさかのぼれず、それ以前の古墳時代ヤマト王権時代)・弥生時代縄文時代には未発達であったのだから、日本の歴史全ての期間において家制度が存在したわけではない」ということが明らかになる議論を喚起した点で、重大な功績を残したと言っていいだろう。

これらをふまえ、憲法24条の「両性の本質的平等」はどのように解釈するのがいいだろうか。

男と女は、子どもが生まれた場合の機能が根本的に異なる。
女は、常に子どもの母であり、その義務から絶対に逃れることができない。
男は、父となれば義務を負うが、父は社会関係に由来するフィクションであり、子どもの父ではない可能性も事情によってはありうる。
生殖機能の違いから発生するこの埋めようのない差異を是正しようとすることこそ、男にとっての逆差別であり、婚姻によって父を擬制する制度自体廃止すべきとの意見もありうる。

しかし、現状その結論にならないのは、子育てが苦役と言っていいほど重大な負担であるからだろう。
権利利益や義務責任といった概念は、人が平等であるからこそ発生する。そもそも不平等な存在であれば、自分の負っている社会的な苦痛は自分自身が負うしかなく、誰かにその責任を負わせる論理的基礎がない。耐えようのない苦しみを抱いた時、「どうして私ばかり」「どうしてアイツは」という激しい憤りを抱くのは、人々は平等であるという真理を信じているからで、それは原始時代、古代、現代、未来のどの時代の人類もそうだったはずである。(そうであるから、インドのバラモン教はありもしない前世の責任を説いて現世での不平等なカースト制度を正当化した)。
「女の私ばかりが苦労して、男がなんの面倒も見ない」という感情も、男女が子育てにおいて差異がないという平等の観念に由来している。そうであれば、父を定め、母の負担を夫に負わせることによってはじめて両性の本質的平等が達成されるといえる。
その必要最小限の条件として、夫が確実に子の父であることを担保するため、夫婦には貞操義務があるとするのは、全く理にかなっている。
そして法は、生物学的父と社会関係的父の一致を原則としている。

しかし、これにより問題も生じる。男を父と定めるには、一定期間、一対一の閉じた関係が構成されていることが必要だ。
男の方は、最悪、複数の男と性交する状況に持ち込んでしまえば、婚外の女性と交われば、父であると断定できない。男にはそのような逃げ道さえあり得るから、不倫も許されやすいし、古代では重婚は禁じられていなかったから、父としての責任を負う覚悟があるならそうしてもよかった。一方の女性は、子どもは自分の腹から出てくるのだから、父を定めるためには開放的性を慎む必要が出てくるということが、両性の本質的平等から要請される。貞操義務は、女性に対してその意味合いがより強く働く。
義務の平等化のために、性的自由の面で男女の不平等が発生しているのは、腑に落ちない結論だ。

このような妥当性に欠ける結論にたどり着いたことからわかるように、ここまでに述べた子供の養育に関する父の設定の必要性はすべてを説明しきれていない。実際には、父を定め、父系ツリーを描くことには別の意義があろう。

母系制社会であることは、その社会の統治者が必ず女性であることを意味せず、長老妻の夫や、男兄弟が権力を持つこともありうる。しかし、たとえば長老夫婦に娘と息子がいて、息子が族外の女性との間にもうけた孫と、娘が族外の男性との間にもうけた孫では、後者が優先的に統治権を得る。(前者は、女性側の一族の権力者には就任する可能性がある)

母系制社会が持続するためは、男を族外から一族内に引っ張り込む必要があった。高群は、だから日本古典文学の中には「婿取り」を表す言葉が先代の作品にたくさん残っていて、「婿入り」を表す言葉はより後代の作品に現れてくると主張した。婿に入るといえば夫側の動作で、婿を取るといえば妻側の家の動作だから、昔の日本は母系社会の性格が大きかったといえる。
このような社会ではつまり、父には「婿を取って、実際に二人の間に子どもが生まれたときに、その婿を子どもからみたときに父と呼ぶこととした」という程度の意味合いしかなくて、母系氏族を維持するには、一族の女性が子どもを産むことこそが大事で、父はどうでもいいのだ。そこに女性の性を制限する理由は見当たらない。
子育ての権利義務うんぬんというのは現代のワンオペ育児の実情を目の当たりにする現代人の考え方だ。

そして、高群は、母系制が父系制に移り変わるのは、古代天皇家にもその痕跡が残されているという。天皇の妻(皇后)のことを「おきさき様」といったりする。このキサキという言葉をたどってみると、時には鬼前という字を当てた人もあるが、高群は日前とするのが正しいとする。日・火という字は「か行」の発音をするものであった。なるほど、3日(みっか)、火事(かじ)などの”か”だけにとどまらず、人の苗字には日下部(くさかべ)というのもある。日・火の前にいる女性がキサキであり、それはつまり火の前で儀式を執り行い、神に通じてその意思を通訳する女性を指す。キサキという言葉には本来王の妻という意味は一切なく、婚姻と族系概念の変化に伴って後付けされ、そのうちに王の妻の意味だけが残存したという。女性がシャーマン・巫女を務めるのは、邪馬台国卑弥呼の例をみても理解されるだろう。

ではなぜ父系制が強まったのか。
思うに、稲作が何世紀も続くと、一族と別の一族との間に、所有する土地の生産力の差に起因する貧富の差が拡大してくるようになり、しかも母系一族が新たに良い土地を確保したりすることは非常に困難だったのではないか。弱い一族が強い一族から婿を取れば、その婿に頭が上がらないというのは考えられる。そのような力関係の下で、夫は妻一族に婿入りするが、一族の中にあって夫婦のことについては主導権を獲得し、次第に一族全体の統治権を得たのではないか。一族の資産規模という社会的実力を用いて他の一族のM&Aを行うことを可能にするのは、母系制ではなく父系制だったのではないだろうか。
妻一族を支配するためには、妻の子供が確実に自分の子供でなければならない。そこで初めて、妻の側に強い貞操義務を求める論拠が発生する。実際に、天皇家はさまざまな一族(蘇我氏や吉備氏や春日氏など)に子どもを残し根を張りつつも、大化の改新などの皇位継承トラブルの末に、広範な国をまとめることができたのだろう。
そうだとすれば、父系社会は土地によって財産を築いた富める者が、貧しい者を懐柔してしまうためのシステムとして生み出されたのではなかろうか。現代国家では貧富の差は租税と富の再配分によって是正されるべきであるが、ヤマト王権邪馬台国にはそのような発想は当然なかったので、豪族による父系制社会の整備、中央集権化を許してしまった。

仮にそうであれば、婚姻した女性の性的自由が男性と事実上は同等でないということも、父系制社会に由来するものだということだ。
現代日本の婚姻制度や家族法、相続法そのものは、一見して男女の取り扱いに差をほとんど設けておらず(女性の再婚禁止期間はあるが)、全く平等な法になっているように見える。しかしそれは、一対一の関係のみに着目した場合にそうなっていて、本質的平等をたどると別の不平等が現れ、女性にとって不利となる規範が含まれている。大化の改新大宝律令以来1300年あまり続く家父長制による富の偏在の蓄積はとても重く、現行法はそれを覆すことができぬ程度にとどまっているといっていいのではないか。

かなり粗野なアイデアだが、一度相続制度を全廃して国庫に収めたのち、公平に分配するなどして、その財産の歴史を断ち切るといった、大胆な改革が必要と思われる。
あるいは、やはり法律婚を廃止するか、個人のレベルでは法律婚をしないということも考えられよう。民法上、婚姻関係のない男女に生まれた子どもは、必ず母の姓を名乗る。婚姻関係はなくとも、男は子を認知すれば父なので、子の扶養義務は生じる。現代において擬似的に母系氏族的な関係を作ることができる。
この場合、形態としては事実婚だから、税控除を受けられなかったり、子どもが父の社会保険に加入できないなどのデメリットがあるので、そのあたりを解決していこうということになる。しかし家父長制の歴史の重みを考えれば、そういう生き方をえらんで戦ってみるというのも意義があり、面白いだろう。

また、昨今天皇皇位継承問題についても議論が盛んになってきている。保守派は男系でないとだめで、女系の天皇などありえないという。この主張は、男が他の一族を乗っ取るという点に国民の祖(オヤ)としての地位と最高の権力の根拠があるのだということで、重要な問題だ。
僕は、そもそも天皇制はその歴史云々はともかく国民の権利制約根拠として法的に作用していて憲法からは省くべきだと思っているからどちらでもいいが、まぁ女系になったほうが生きやすい社会になるかなとは思う。

参考
・モルガン「古代社会」
エンゲルス「家族、私有財産および国家の起源」
柳田国男「婿入考」
高群逸枝招婿婚の研究」、「日本婚姻史」
・関口優子「日本古代婚姻史の研究」
・吉田孝「律令制と村落」
・栗原弘「高群逸枝の婚姻女性史像の研究」
・高嶋めぐみ「わが国における婚姻の実態的変遷」
・ブラックリッジ「ヴァギナ 女性器の文化史」

 

追記_2020/01/25

書いているときは一対一がすぐに現れると考えていたものの、その前段階に一夫多妻婚の形態があることに気づく。すなわち、父を定めるために女の関係は閉じていなければならないので、群婚から対偶婚(一対一の関係だが、相手以外との関係もゆるされる状態)に移行し、性的結合を1人の相手に制限する単婚となるか、一夫多妻婚はこの単婚に分類され、財産の相続者を定めるために夫も妻以外との関係を慎むべきという事情から、一夫一妻制となる。これは古代の天皇家にもみられる変遷である。