テンポラリー

そのときに思いついたことの備忘録。租税について考えることが多い

2017年骨太の方針(2017/6/9)

2017年年6月9日、「経済財政運営と改革の基本方針2017~人材への投資を通じた生産性の向上~」(骨太方針)が経済財政諮問会議での答申を経て、閣議決定されました。
http://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/cabinet/2017/decision0609.html

基本方針36ページにおいて、生活保護については以下のような方針が掲げられています。

生活保護制度、生活困窮者自立支援制度の見直し
医療扶助費の適正化のため頻回受診対策や後発医薬品の使用促進を強化するとともに、生活習慣病予防等のための効果的・効率的な健康管理に向け、データヘルス実施の仕組みを検討する。子供の生活習慣改善に向け、学校等と連携したモデル的な取組について検討を行う。生活保護世帯の子供の大学等への進学を含めた自立支援に、必要な財源を確保しつつ取り組む。就労支援事業について、参加率や就労・増収の状況に大きな地域差が存在していることを踏まえ、就労支援を推進する。扶養の状況等を把握し、適切な保護の実施を図る。生活扶助基準について、一般低所得世帯の消費実態との均衡等の観点からきめ細かく検証する。級地について、見直しに向け必要な検証等に取り組む。支援につながっていない生活困窮者を把握し、世帯全体への支援につなげる相談支援体制の整備を進め、地域の実情を踏まえ、就労準備支援事業の促進策や家計相談、子供の学習支援、居住支援の推進など、自立に向けた支援メニューの見直しについて費用や効果の観点も踏まえつつ検討する。

国民の義務の考察(納税の権利)

「働かざるもの食うべからず」の原則

一般に、日本国憲法に規定される国民の三大義務といえば「納税の義務」、「勤労の義務」、「子女に普通教育を受けさせる義務」とされている。

しかし当初、国会に提出された日本国憲法原案には納税の義務と勤労の義務は規定されていなかった。これはどういうことかといえば、「個人の人権のその裏にはもちろん義務があるが、その義務は一括して憲法12条に記載をしている」という基本方針によって憲法が作られているから(金森徳次郎国務大臣・衆委・昭21.7.2)。
教育を受けさせる義務だけはどうしても12条から導き出せないけれど、国民統治を実現するためには必要なことなので規定されている。

つまり日本の憲法によって国民が負う本源的義務は「不断の努力によって権利を保持し、濫用せず、常に公共の福祉のために利用する義務(12条)」と「教育を受けさせる義務」の2つということになる。その帰結として「納税の義務」、「勤労の義務」は12条義務の範囲を超えない限りで解釈しなければならないというのが正しいといえる。

そうすると27条の「勤労の義務」は、同条において全て国民が有する勤労の権利の行使にあたって他の人権を侵害してはならない、教育を受けさせる義務を侵害してはならない、といった具合の義務の内容になる。
例示すれば、「公務員の地位にないのに公務員として働く権利を主張する(公務員選定権の侵害)」、「芸能活動をする児童が働いているからといって普通教育を免れるといったことは出来ない(普通教育を受けさせる義務の侵害)」、というようなことになる。

25条(生存権)の具体的施策たる生活保護受給権を行使する、あるいは無拠出型障害年金の受給権を行使するにあたり勤労の義務を果たさないのに権利を主張していると主張することを、日本国憲法は想定していない。

義務を果たさないものは権利行使すべきでない、その標語はどちらが先かということに争いはあるものの正しいことだと思う。ただ、憲法上における義務は、ほとんど12条の「濫用しない義務」に集約されるということになる。


納税の義務について検討する。12条義務に合致するように義務を解釈するなら、上述のように、勤労の義務には濫用を許されない権利(前提権利)となる勤労権がある。そして26条2項の普通教育を受けさせる義務については1項に教育を受ける権利が記述されているが、これは教育を受ける側と受けさせる側についての関係性について特別に規定された義務だから、そこに疑念を挟む余地はない。納税の義務はどうであろうか。これは憲法30条に「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。」としているのみで、前提権利が何であるかについての記載がない。これは第3章の中にあって他の条項とは異なる30条の特筆すべき点であろう。しかし12条義務の範囲で本条を解釈するなら、やはり、納税の義務についても前提権利が存在するはずだ。

もし前提権利が存在するのでなく、つまり「何かの権利について濫用してはならない」という12条の義務の範囲を超えて、納税の義務を負うとする意味での特別の規定と解するなら、どのようになるか。
84条において「あらたに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要とする。」とされており、国会での審議でも「納税の義務は…後ろの方にありまする第80条(憲84条)などに於きましては、裏面から納税の義務の動かさざる存在であることをあきらかにして居ります。」としている(金森徳次郎国務大臣・衆本・昭和21.6.25)
この84条の租税に関する法律は98条1項によって、憲法に反するものは効力を有しない。つまり第3章に掲げられる国民の権利を不当に侵害する租税は排除され得る。
もし30条が特別の規定であったとしても、その「法律の定めるところにより」との文言上、同じく98条1項によってその内容には制限がある。ゆえに30条において負担する納税の義務の範囲も、実質的には12条における義務の範囲内であるということになって、特別の規定と解する意味が失われる。
また金森徳次郎国務大臣地方税の課税の正当性について、84条では解釈が困難であるが、30条において地方税をも負担する義務を見出す根拠となり得ることを答弁している(貴委・昭和21.9.25)。しかし30条がなかったとしても、84条と第8章地方自治における92条、94条によって地方税課税の根拠とすることにはなんら問題がなく、地方税課税の唯一の根拠として30条をとらえる必要はない。

このようにしてやはり30条にも12条を適用して、前提権利があると解釈するのが妥当であろう。そして本条が第3章に規定されていること、第3章に記載されている義務には同条内に権利も含めて記述されていることを勘案すれば、30条は納税の義務に対応した納税の権利が存在することを仄めかすものと考えるべきだ。また30条の文言からすれば、納税の権利の具体的内容は、法律に則った租税を収める権利および租税に関する適切な法律を制定することを求める国務請求権といえる。
なぜなら前者の権利について、納税に関する法律に納税をしないことによって刑罰が科されるものがあり、行政が恣意的に納税を拒んだとしたら国民にとっては課されることのなかったはずの罰を受けることになるからだ。30条は法律に定めるところによって納税をすることを保障しているといえる。これは国家からの自由に資する。
また、後者の権利について、84条は租税を課す場合の手続きと内容の正当性を保障するものであるが、国に課税をする意思がなければ84条の規定にのらないということも考えられるからだ。86条において内閣が歳入を含めた予算を作成することになっているとしても、全ての歳入を国債で賄う、あるいは租税によって必要的歳入が不足することによって歳出を拒むことも理論的には可能とされるわけで、課税をしなければならない根拠にはならない。国民の側に納税の権利が存することを認めて初めて84条、86条が実質的な意味を持つ。これは国家への自由および国家による自由に資する。また、今ある租税法がたとえば経済活動の自由を著しく制限しているような場合にそれを適切な基準に改めるよう求めるとすれば、国家からの自由の側面も垣間見える。

このように解することはフランス人権宣言第13条(租税の分担)前段と矛盾することもない。

 

■フランス人権宣言第13条(租税の分担)
公の武力の維持および行政の支出のために、共同の租税が不可欠である。共同の租税は、すべての市民の間で、その能力に応じて、平等に分担されなければならない

 

 

なお、納税の権利と納税者の権利は別モノ(別の概念)なのであしからず。

http://www.nikkeibp.co.jp/article/sj/20130131/338731/?P=1&ST=mobile

支持率調査を報道することは憲法で保障されているか

ネットでよく揶揄されているが、安倍総理は答弁ができないときにいつも支持率で自分を正当化するか、質問相手を貶める。

そもそも支持率なんて調査・報道しなければいいのではないかと思う。

でも世論調査表現の自由報道の自由で認められてるし、マスコミ等にやめさせるわけにはいかないんじゃないかと。。。。

そこで下記検討。

 

 

報道の自由憲法上保障されている。

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博多駅テレビフィルム提出命令事件(最大決昭44.11.26)
報道機関の報道は、民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の「知る権利」に奉仕するものである。したがって、思想の表明の自由とならんで、事実の報道の自由は、表現の自由を規定した憲法21条の保障のもとにあることはいうまでもない。
報道機関の報道が正しい内容を持つためには、報道の自由とともに、報道のための取材の自由も、憲法21条の精神に照らし、十分尊重に値する。

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・この判例からすれば内閣支持率政党支持率等の世論調査も取材の自由、報道の自由として保障されるものと解するのが普通だろう。
・しかし、上記判例は、報道される事実が必ず国政に関与するための重要な判断の資料に資するか否か、また判断資料とされない事実がある場合、その事実を報道することが報道の自由として認められるか否かまでは検討していない。
・たとえ事実の報道だとしても、他の事実と競合し、人を惑わせることがある。例えば国政政党の支持率と得票率はどちらも国政政党に対する信託について調査したものだが、その結果に違いが現れる。このため具体的な検討が必要と考えられる。
・選挙における被選挙者および政党の得票率は、直接選挙の結果を示すものであり、国民の政治参加を省みるための重要な資料と言える一方、内閣支持率政党支持率はどうだろうか。
・これらについて、選挙期間にない期間における政治の過程を評価した一指標という事実であり、国政判断資料として採用されるべきとの意見がある。
・報道を受ける国民の側にとっては、支持率調査という指標は、憲法上、国民の判断に奉仕する取材の自由及び報道の自由の行使主体であるマスメディアがその使命に基づいて発したものであるから、支持率は国政判断資料として利用すべき事実と推定する。
・この結果、国民が支持率を国政参加の判断資料とする場合は現在の国政の正当性の指標として利用することになる(みんなが支持してるから正しい)。支持率調査の「国民が支持しているかどうか」という単なる観点では、調査の対象となっている内閣、政党の行いが正しいか否かを判断するものではない以上、そのようなことになる。
・しかし実際には、内閣が国民の圧倒的多数に支持されているからといって内閣の政策が必ず全ての国民にとって利益がある(いわば「正しい政治である」)とする合理的理由はない。(本命題が裁判において真なるものとして採用されれば、少数意見支持政党の国会議員による国会質疑は意味をなさない。)
・このことから、支持率はその性質上、それを報道することによって、国民主権の観点から本来的に重視されるべき「現在の国政が真に国民生活に資するものであるか否か」の判断を極めて困難にする。また、支持率がおよそ明確で印象に残りやすい「数値」の形で表現されていること、被雇用者の労働時間の長時間化、国家施策一つ一つの複雑性の深化等の社会状況に鑑みれば、いくらインターネットで情報が公開されているとしても国民が自身で国家施策の国民に寄与するものであるかどうかを判断することは難しく、支持率という事実に頼らざるをえないためにその害悪性は高まっている。
・また国会議員日本国籍を有するものである以上、国会議員および総理大臣および国務大臣も支持率を国政参加の資料とする。国政の正当性の指標として受け取られ得、それはそのまま自己の政策や提案を正当化し、そのことのみによって反対意見を排除する恐れがあり、この点からも弊害があることを見逃してはいけない。
・事実が国民が国政に関与する際の判断資料になるか否かは、①当該事実が国政が国民または自身の生活に寄与するか否かを判断するものとして利用する合理的関連性を持つものか、②当該事実がその表現方法や国民を取り巻く社会環境と相まって他の事実を圧倒し他事実を取得・検証することを困難にするものか、③当該事実がそれが立法過程、行政作用の段階においてその地位に与えられている権能を実質的に機能させなくなるものか、考慮し、どれも満たさない場合には判断資料にならないものとして決せられるべきだろう。
・以上国政における内閣および政党について検証したが、都道府県知事および都道府県議会の議員及び政党、市町村長および市町村議会の議員及び政党でも同様だろうか。この点、②、③については国政における問題と同様の問題があるものの、①については地方公共団体には住民自治の観点から条例の制定・改廃請求や議会解散請求、議員・知事の解職請求といった直接請求の制度が整っており、支持率報道が与える現時点において住民にどの程度支持されているかという事実は、それによって直接請求の実現可能性を探る手がかりとなるため、住民及び自身の生活に寄与するものとして利用する合理的関連性を有する。このように解すれば、住民の政治参加の判断資料として採用することが可能となる。
・個別の政策における世論調査はどうか。①、②について、国民は個別の政策について随時国政に関与できる制度を持っていないため問題とならない。③については、当該施策に対する支持率が低い場合には、国会議員が国民の知る権利を確保するために議案提出者に対して議案の内容を深めることを要請しうる資料となり、その権能を弱めるものではない。このように解すれば、国民の政治参加の判断資料として採用することが可能となる。
・以上指摘したように事実が必ず国民の政治参加の判断資料とならない可能性は多いにあるが、判断資料とならない事実についても報道する自由が認められるかについては、博多駅テレビフィルム事件の判例に立ち返り、自己統治を実現する知る権利に奉仕しないのだから、憲法上保障されているとは言い難いと思う。

こども保険は違憲ではないか

■こども保険は違憲ではないか
http://yomiuri.co.jp/politics/20170516-OYT1T50059.html

 

医療保険や年金、失業保険はなりたくてなったわけではない、人であれば誰にでも起こりうる不利益状態に対して給付するから保険が成り立ちうるが、こども保険は(1)子どもをもうけたが、(2)育児にかかる費用の捻出が出来ないという状態に対して給付するということになる。しかし(1)を満たすことが不可能な人(生来的に生殖能力に関する疾患を有する人など)は未来永劫受給権が発生することがないわけで、受給するチャンスがない彼らから保険料を一方的に徴収するのであれば、それは保険の大前提を欠くものといわなければならない。

制度設計如何にもよるが、この問題を解決するために彼らを保険から除外するとすれば、国民側では男性ならパイプカット、女性なら卵巣摘出によって制度を脱退し、保険料徴収を回避することが可能となる。しかし、これを認めると財政施策が国民の生殖能力の放棄を推奨することとなり、ひいては人類種の保存阻害を来すという点で国家にあるまじき愚行である[* 下記参照]。

または受給要件(2)に関連して、給付を受けることを目的とした偽装養子縁組が発生することも考えられる(例:受給に所得制限を設ければ、高所得世帯の子を低所得世帯に養子に出して保険を受給し、山分けするなど)。この点については一般会計歳出事業で行われたとしても同種の問題が生じうる。

結局は、こういったモラルハザードを生み出さないよう、国民全体の賃金水準を底上げする政策が財政効率の観点からして選択されるべきであるし、公保険制度論にはなじまない子ども保険は任意加入に留めるとするか、自然人だけでなく法人にも負担を求め得る一般会計租税を財源とした一般歳出事業として行われなければならないのは明白である。

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[*]生殖能力を有する権利は当人の幸福追求のあり方を豊かにするものであり、これを保険料徴収回避の目的で積極的に放棄する自由を憲法は認めておらず、誰からも奪われてはいけない。故に国家が国民に権利放棄させる又は放棄を想起させるような施策は、それを行わなければ他の人権を保護することが出来ない、他に手段がないなどの必要最小限度であることを検証することすら要しない。
この重大性に鑑みれば、こども保険の「有子世帯の負担の軽減」という本来目的が合憲であるとしても、保険という方法には違憲性が認められ到底容認できないと言いうる。なお制度の概要が判明を待って再度検証が必要。

租税の定義

租税:国または地方公共団体が収入を得る目的をもって,一般統治権に基づいて,法定要件に該当するすべての国民 (個人および法人) から反対給付を約束することなく強制的に徴収する金銭。

反対給付:売買などの双務契約で、一方の給付に対して対価の意味をもつ他方の給付。例えば、売り主の目的物の給付に対する買い主の代金支払いの給付など。

双務契約:当事者の双方が互いに対価的な債務を負担する契約。売買・賃貸借・雇用など。

片務契約:契約当事者の一方だけが債務を負担する契約。贈与・使用貸借など。

単独行為:一方的に意思表示をするだけでその内容どおりの法律効果を生じる法律行為。取り消し・追認など相手方のあるものと、遺言・寄付行為など相手方のないものとがある。

移民とテロ

日本ILO協議会雑誌「Work&Life」2016年第6号に商学部時代に労働経済学で授業を受けた鈴木宏昌教授のレポートが掲載されていた。「迫るフランス大統領選挙:どうなるフランス型社会福祉モデル」として、大統領選挙では労働・社会保障関係で何が争点とされているかが著され、最後のパートは「社会統合とイミグレ」という小見出しで、教育による移民の社会統合は機能しておらず、誰が新大統領になっても小手先の政策は通用せず、長期的な戦略と莫大な投資が必要となると締め括る

教育による移民の社会統合が機能しないとは、端的にいうと、家庭でもフランス語を使わないような子どもが学校の授業クラスで増えると、学級崩壊が起こりやすくなり、学校が荒れるということらしい。
当たり前といえば当たり前だ。言葉が通じなければ授業の意味がない。

フランスの移民人口は、第1世代は総人口の6〜8%くらい、2世、3世を含めると全人口の2割弱。移民は大都市周辺に集まっており、移民が多い地域は概して住宅環境が貧弱で治安が悪い。教育からの落ちこぼれ、失業、貧困といった問題が複合的に生じているという。また、イスラム系のテロ事件がいくつも発生しているが、実行犯の多くは移民2世のフランス人であったらしい。

教授いわく「移民1世はフランスの生活に大きな不満を持っていないようだが、2世、3世となると、フランス人の国籍を持ち、フランスで教育を受けたにも関わらず差別されていると感じ、フランス社会に反発する人がかなりいる。」


そうであるならば、国内人によるテロ事件が起こらないようにしたいなら、何よりも移民への言語教育が必要になってくる。特に、日本で生まれる移民2世、3世が日本の初等教育についていけるように集中的に。
日本人からも歩み寄る必要があるだろう、すなわち外国語科目(英語)において100点を求める教育から60点でも良いとする教育に転換する。
英語Aと英語Bにわけて、Aは文法が間違っててもいいし、単語の羅列でも良いから意味が通じれば良いライティング、スピーチで成績をつけない。Bは単語の意味を理解することを最重点としたリーディングで、成績をつけるが、試験の方法はほとんど単語テストのみ。

外国人にきてもらうなら、100人のうち1人が完璧な英語を操れる社会より、100人全員が完璧ではないけれど40%ずつくらいの意思疎通は図れる社会のほうが外国人にとって生きやすい環境ではないだろうか。

供犠から貨幣へ

(貨幣主権論)

神(聖域)と人間の間に紐帯・同盟を結ぶと、人間の権利が出現する。

原始インドのテキストによれば「犠牲、それは人間である。人間は、犠牲に捧げられるべき筆頭のものである」とされている。人の生贄が神と人間の紐帯・同盟を【担保】するのだが、一度その犠牲によって人間の権利が発生したとすると、今後は人を簡単に生贄に捧げることができぬ。

このようにして倫理が発生する。この倫理が増す(法化する)ことによって供物の対象が人間から動物・植物、銀シケルへと変化し、ついには貨幣に成る。

貨幣の前段階の銀シケルは、寺院の聖域で作られ、材料の銀の取引は僧侶によって保証されていた。これを得ることによって牛を屠らずとも有効な供犠をうけることができる。

法と貨幣は宗教的に一体的に生じる。しかし同時に法・貨幣の出現は供犠の行為を省略することができるので原始社会を世俗化、非神聖化した。

ただし、世俗化した世界に存在(流通)する金属的象徴の有効性を認めるのは未だ司祭である。そういうわけで司祭が供犠祭壇の前だけでなく、俗世にも介入するようになってくる。神聖な儀式の中でこそ司祭には様々な機能があったものが、俗世の間にも神の意思を仲介して機能を発揮するようになった。司祭はかくて世俗に聖なる線を引き、さまざまな存在や関係を生み出すことができる王となる。

(つづく)

自然権上の納税義務、憲法上の納税義務の関係

3/30の「租税の平等原則について」
http://mrkm1814.hatenablog.com/entry/2017/03/30/060008
で考察したように、自然権上の納税の義務には平等原則が適用されないと解釈したとしても、日本国憲法30条は「国民は法律に定めるところにより、納税の義務を負ふ」としている。
 
①平等原則のない、まっさらな納税の義務がある。
②国民から選挙で選ばれた代表が、租税の立法を行う。この際、立法内容は平等原則に従う。
③国民は、憲法30条により、平等原則の枠内にある法律にしたがって納税義務を負う。
④同時に行政、司法も、この立法に違反しないようにこれを運用していく必要性がある。
 
◆ 論点1
まっさらな納税義務の本質は何か
・租税国家においては個人が持つ政治参加の権力である。
・「義務」とされているのは、主権が為政者には存していないことを常に否定し続ける意味において義務だということである。
・納税をしないことが必ずしも納税の義務に違反しているとはいえない。税を収めないことによって為政者が事業を行うことができないということが考えられうる。この場合でも、個人はやはり権力を行使しているといえるからである。
・なお、「租税法律主義」は、まっさらな納税義務にも付着している。構成員が2人しかいない国家で、ある共同の困難を解決するための事業に対して一人が60%負担し、他方が40%負担するとする場合、そこには必然的に契約が生まれるから。また一方が納税契約を拒否したときには、別の一方が全額を負担するという意味の契約が生じたと解すれば良い。全額を負担した一方は信頼関係に基づいて非貨幣的現象によって負担しなかった一方から何らかの利益を享受することも当然可能であるので、負担しなかった一方を絶対排除しなければならないものでもない。多人数を構成員とする国家において個人間に信頼関係がないとしても、財政を通じた公共財・サービスなどの非排他性があり、(納税しなかった者が昂揚財・サービスを利用することによって、彼らからも何らかの非貨幣的な社会利益を受けることができるという)外部経済性等により福利をえることが可能と推定されるので、租税法律主義はその国においても認められる。むしろ、納税をしなかった構成員から全くの福利を受けることが不可能と想定することのほうが難しい。
 
◆論点3
納税の義務憲法に明記したことの効果
・為政者が主権を持たないことを積極的に肯定した。(国民主権の再認)
租税法律主義を積極的に肯定した。
国民主権再認があったことを国は認識していない。憲法原案からこの憲法30条が衆議院において追加された経緯は次のとおりである。
日本自由党の北レイ吉(レイ:日へんに令)から「新たな憲法には権利のことばかりが書かれていて、偏った内容になっている。加えて他国の憲法には納税の義務があるとなっているから義務として盛り込んだほうが良いのではないか」と提案され、国務大臣金森徳次郎が「この義務が国民に存することは明白だが、基本的法制として最小限度に必要と認める」と応えたもの。
 ・基本的法制として必要とは、北議員によると「財産税をとることすら財産権の侵害で憲法違反だと言われかねない」ということであり、つまり課税を正当化するために明文化していなければ都合が悪いということである。
・このことから国は、法律に則った租税に国民が応じない場合には納税の義務に違反するとして違法性を指摘することができ、租税について権力を行使することができるとした。(義務の誤解)
 
◆論点4
欽定憲法では納税の義務はいかに解釈されるか
為政者から与えられる権利ではなく、固有の権力なので行使しうる。

◆論点5
まっさらな納税義務に平等原則の枠をはめられる根拠は何か
・平等原則は、個人間の信頼関係を無視し、没個性化・均質化を図る。これによって租税事務を簡略にして円滑に運用するとともに、一定の財源を確保する。
ローマ帝国のケンスス以来の歴史的な貨幣と法の理論に基づく。

◆論点6
平等原則は信頼の利益を排除するか
・排除する。納税者が納税しなかった者または自身より少額の納税者から享受できるものは外部経済性のみである。
・そもそも現実の国家の租税にあたり平等原則があるのは、個人間に信頼の利益の基礎となる信頼関係がないからである。
 
◆論点7
司法は立法を尊守しなければならないか。違法な立法とすることはできないのか。
・手続法の点においては違法を指摘することができるが、実体法の違法性(違憲性)は判断できないのではないか
・個人の財産に対してどの程度の課税額が許されるのかについては経済的・政策的技術により判断されうるものであるから、司法には判断能力がないのではないか。
 

不納税と抵抗権

敬文堂『税法・権力・納税者』(新井隆一,昭和45年)P85〜

 

【不納税と抵抗権】

 

◆最低限度の生活と納税の義務
いつものことながら、税制調査会の個人の所得課税の減税についての答申、その答申を尊重したという政府の減税案が、予算の編成から国会審議の過程で、しばしば、マス・コミの話題となることであるが、いつになっても、その減税は、納税者の体験的な満足もえられもしなければ、理論の上での満足もあたえられていないようである。
とりわけて、個人に対する課税が、全体として、憲法の保障している健康で文化的な最低限度の生活にまでくいこんでいるのではないか、ということになると、それは肯定されざるをえないことになるし、税制調査会や政府が、この問題を真剣に考えていることとは考えられえないのである。
個人が負担する所得税、住民税、固定資産税、などの額を合計し、これをその個人の所得の額から差し引いた、個人が本当の意味で生活を営むに費やせる金額が憲法が予定している健康で文化的な最低限度の生活を賄うに十分でないという状態が、制度化されていることは、否めないという現状のもとで、そのような憲法違反の課税に、納税者は、そのまま素直に従っていなければならないものであろうか。

◆最低限度の生活者の課税への抵抗
このような場合、違憲の税法による課税処分に対して、可能な限りのあらゆる合憲的な、あるいは合法的な制度上の手段を通じて、たとえば、裁判所による違憲審査の途をふんで、納税者が政府に非を認めさせるよう努力したり、あるいは、国会などにはたらきかけて、税法の文字通りの「改正」を要請したりすべきことはいうまでもないことであろう。
しかし、このような手段が、とりわけて、違憲審査の手段が、現在の事情のもとでは、その争いを起した納税者個人に多くの犠牲をはらわせることになるから、なかなか実行は困難というべきであるし、そのような争いを起さなければならない納税者は、まさに健康で文化的な最低限度の生活を営んでいない人たちであるから、争訟提起の経済的余裕さえないものである。
それに、申告納税の税にあっては、この争いはまず、申告をしない、ということからはじめなければならないのであるから、納税者にとっては、はなはだしく、勇気と決断の必要なことである。
民主的なといわれている申告納税の制度も、ここでは、納税者にとっての、重い足かせとなっているのである。

 

◆抵抗権は認められるか
このような場合には結局、少しでも、健康で文化的な生活の維持にちかづこうとすると、いかなる課税をされようと、申告をしようと、つまりは、納税できない、ということにならざるをえないのである。
そして、滞納ということの本来の意味は、納税が可能であるにかかわらず納税しない状態をいうのであるから、この納税不可能という状態は、滞納というよりも、もっと深刻な納税不能という事情であると言わなければならない。
基本的人源の尊重という憲法の基本秩序が国家権力によって侵害されているとき、これを阻止する制度上の一切の手段がつきた場合は、国民は、「抵抗権」を発動して、それを阻止することができる、と一般的にはいわれている。
そして、憲法12条の「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」というこの保持義務の背後には、この「抵抗権」を認めるという意味が含まれている、とも考えられている。
しかし、健康で文化的な最低限度の生活を、恒常的におびやかしている税制のもとで、しかもこれを制度上の手段では、はねのけるには、ほとんど困難ともいうべき事情が積み重なっているところで、なおかつ、その制度的な手段をすべてつくした後でなければ、「抵抗権」の行使ができないというのでは、この問題に関する限りでは、「抵抗権」の意味は、著しく減退させられるというものである。
「抵抗権」の理論がなお未熟ではあるし、その性質上、悪用・濫用されると、民主主義をかえって破壊することにもなりかねないから、きわめて慎重を要することではあるが、税制調査会や政府の怠慢が続くかぎり、それは、とりわけて検討されなければならない問題であるということにもならざるをえないであろう。

租税の平等原則について

租税の平等原則自体も、課税権力が権力ではないことの証左(任意に権力を行使しないことは許されない)とも言われるので、これを援用しながら何かうまいこと考える必要がある。

納税の義務≠課税権力として、国家が課税を下命すること自体には平等原則が働くが、国民側が納税をする場面では適用されないとすることはどうだろう。

租税の現代的な定義は「収入(財政需要=公的欲求)の目的をもって国又は地方公共団体が、一般国民(住民)に賦課する強制的金銭給付」であり、租税は特別の約無に対する反対給付の意義を持たない。


平等原則自体は何による要請なのかを考える。これは、直接的に関係性を持たない個人間について信頼がないために機械的に必要的負担を配分するということだろう。もし、国家の構成員が5人[*]ほどで、互いを良く知れる原始的な社会であれば、人は自信が共同的事業に対していくら支払うのかということ(負担の平等性)について厳格性を求めない。気心が知れているし、日常生活の中で相手方から(貨幣的であるか非貨幣的であるかを問わず)何かしらの恩恵(恩返し)を直接に受けることも期待できる。(特に、非貨幣的な見返りを期待できるということが重要だろう。)

[*]
①構成員が2人の場合・・・少数派は発生せず、2人の権力は均衡している。
②構成員が3人以上、かつ、個人間に信頼が充足している場合・・・少数派が発生し得る。少数派が多数派から批判されるとき、少数派は共同的事業に対する自信の供託割合に応じて貢献を主張する。(また、マイノリティの貢献度が全体の1%だったとしても、共同事業を行うには彼の出資を含めた満額がなければその事業を行うことは出来なかったと仮定する。仮定する必要があるかどうかも検証する必要性がある。)
この場合でも、信頼関係がある限り、批判を強めることはできない。信頼関係に基づいて少数派の非貨幣分野での貢献も期待できるから。

③構成員が3人以上、かつ、個人間に信頼が充足していない場合
基本的な部分では②と同様であるが、信頼がないために多数派は批判を強める。
多数派は、少数派の貢献度が低いと評価するための基準を持たなければいけない。そのために所得など、貨幣的基準に基づいて少数派を批難する。この時、同時に多数派自身もこの基準に準じる必要がある。こうして、構成員全員に適用される平等原則が発生しうる。

ここで重要なのはやはり、個人間に信頼関係が希薄な部分があるために平等原則が適用されるという関係だろう。もし人間がテレパシーを以って、コンピュータネットワークのようにすべての個人の情報を互いに瞬時に同期できるとしたら、③から②の状態に接近していくに違いない。

では③の状態[現実の国家]の中で、平等原則を排除することは難しいだろうか。否、それは間接的な非貨幣事象による恩恵を以って解決することができるだろう。少数派がいる社会を保持することによって恩恵を受けることは多い(外部経済性)。それに、法律に定めるところによって特定の義務を負うことで、結果としてその分野に対して(本来はより多額の金銭が必要であった)事業の予算が減殺し、財政循環によって巡り巡って、貨幣的にもそれぞれの個人に利益となることもある。生活保護法における扶養義務などがそれである。
このように本質的な部分では平等原則は実際的には不要かもしれない。現実には他に、事務的な効率性や正確性の担保といった事情もある。でもこれは課税する側による事情ではあるけれど、納税する側の事情ではない。もし、平等原則の存在がこの事情のみに寄るものだとすれば、この原則が適用されるのは国家が課税をするときのみであって、国民が納税をするときには及ばないと解することも可能となる。

租税の平等原則自体も、課税権力が権力ではないことの証左(任意に権力を行使しないことは許されない)とも言われるので、これを援用しながら何かうまいこと考える必要がある。

納税の義務≠課税権力として、国家が課税を下命すること自体には平等原則が働くが、国民側が納税をする場面では適用されないとすることはどうだろう。

租税の現代的な定義は「収入(財政需要=公的欲求)の目的をもって国又は地方公共団体が、一般国民(住民)に賦課する強制的金銭給付」であり、租税は特別の約無に対する反対給付の意義を持たない。


平等原則自体は何による要請なのかを考える。これは、直接的に関係性を持たない個人間について信頼がないために機械的に必要的負担を配分するということだろう。もし、国家の構成員が5人[*]ほどで、互いを良く知れる原始的な社会であれば、人は自信が共同的事業に対していくら支払うのかということ(負担の平等性)について厳格性を求めない。気心が知れているし、日常生活の中で相手方から(貨幣的であるか非貨幣的であるかを問わず)何かしらの恩恵(恩返し)を直接に受けることも期待できる。(特に、非貨幣的な見返りを期待できるということが重要だろう。)

[*]
①構成員が2人の場合・・・少数派は発生せず、2人の権力は均衡している。
②構成員が3人以上、かつ、個人間に信頼が充足している場合・・・少数派が発生し得る。少数派が多数派から批判されるとき、少数派は共同的事業に対する自信の供託割合に応じて貢献を主張する。(また、マイノリティの貢献度が全体の1%だったとしても、共同事業を行うには彼の出資を含めた満額がなければその事業を行うことは出来なかったと仮定する。仮定する必要があるかどうかも検証する必要性がある。)
この場合でも、信頼関係がある限り、批判を強めることはできない。信頼関係に基づいて少数派の非貨幣分野での貢献も期待できるから。

③構成員が3人以上、かつ、個人間に信頼が充足していない場合
基本的な部分では②と同様であるが、信頼がないために多数派は批判を強める。
多数派は、少数派の貢献度が低いと評価するための基準を持たなければいけない。そのために所得など、貨幣的基準に基づいて少数派を批難する。この時、同時に多数派自身もこの基準に準じる必要がある。こうして、構成員全員に適用される平等原則が発生しうる。

ここで重要なのはやはり、個人間に信頼関係が希薄な部分があるために平等原則が適用されるという関係だろう。もし人間がテレパシーを以って、コンピュータネットワークのようにすべての個人の情報を互いに瞬時に同期できるとしたら、③から②の状態に接近していくに違いない。

では③の状態[現実の国家]の中で、平等原則を排除することは難しいだろうか。否、それは間接的な非貨幣事象による恩恵を以って解決することができるだろう。少数派がいる社会を保持することによって恩恵を受けることは多い(外部経済性)。それに、法律に定めるところによって特定の義務を負うことで、結果としてその分野に対して(本来はより多額の金銭が必要であった)事業の予算が減殺し、財政循環によって巡り巡って、貨幣的にもそれぞれの個人に利益となることもある。生活保護法における扶養義務などがそれである。
このように本質的な部分では平等原則は実際的には不要かもしれない。現実には他に、事務的な効率性や正確性の担保といった事情もある。でもこれは課税する側による事情ではあるけれど、納税する側の事情ではない。もし、平等原則の存在がこの事情のみに寄るものだとすれば、この原則が適用されるのは国家が課税をするときのみであって、国民が納税をするときには及ばないと解することも可能となる。