テンポラリー

そのときに思いついたことの備忘録。租税について考えることが多い

父系婚姻制度では両性の本質的平等は達成できない

 

ライオンの群れの中のメスに子供がうまれた時、オスライオンはその子の父親といえるか?
そう聞かれれば、「群れ以外のオスがメスをだまくらかして交尾でもしない限りは、そりゃ父親だろう」というのが人間の考え方だが、僕がいいたいのは、そういうことではない。

というのも、ライオンが人間と同程度の知能を備えているわけがなく、生殖のメカニズムをライオンが理解しているとは考えにくい。自分の交尾行為によって、子が発生したと考えるはずがない。確かにオスは生物学的父ではあるけど、自身には「オレと血の繋がった子だ」という認識はありえず、せいぜい「なんか群れの中のメスに生まれた子ども(ただしニオイは自分に似ている)」程度の認識に留まると考えるのが自然ではないか。オスは、群れという社会の関係では、子供の面倒をみる(外敵から守ってやる)監護権者ではあるけれど、父親ではない。

この意味では、一雌一雄を基本単位とする動物(ペンギンなど)でも、複雌複雄の群れを形成する動物(サルなど)でも、オスは子供の父親ではなく、母親のパートナーでしかない。子育てをする動物の社会において親は母しか存在しない。もし家系図を書くなら、母を中心とした母系ツリーになる。もっとも卵生の場合、母親も本当に母親かどうか危ういけれど(カッコウの托卵)。

そうすると、人間はその知能で、そのメカニズムの詳細はわからずとも「ヤればデキる」ということを発見できたので、父親という概念を発明した唯一の動物であるといえるだろう。このことは何年か前に話題になった本「サピエンス全史」にも同じようなことが書かれているらしいので、誤ったアイデアではなかろうと思う。

1人の男を子どもの父親と推定するためには、男女ともに、1人の相手以外と性的関係を持たないというルールを前提とすることが必要だ。厳密には、女が一定期間1人の男としか性交しなければそれでよく、男側は別の男女のそれを破らないという副次的なものにとどまる。(モーガンが提唱し、エンゲルスが紹介し、高群逸枝が古代日本について適用したように)原始の時代には群婚・乱婚という名の無規則な男女関係による社会結合や、1つのコミュニティの複数の男が穴兄弟で分割父性を観念した時代や民族があるかもしれないが、人間が生殖と妊娠の秘密に気づいた時点からは、一夫一婦制が始まったと考えるのが妥当ではなかろうか。
一女一男の基本単位を前提にすると、仮にその相手以外と性交し子どもが生まれた場合、夫が生物学的父ではないとしても、社会関係上では夫を妻の父とする擬制を行うことができる。このように、母はどこまでいっても母であるが、父は生殖の知識と何らかの社会(基本は最小単位たる一対一)を備えなければ発生しえない存在といえる。生物の理からすれば、夫が妻の子に果たさねばならない義務というものは妻を介した間接的で希薄なものでしかなかったが、人間は彼にかの子に対する義務を直接的に負わせることが可能となった。
これまで母系的にしか祖先を辿れなかったが、父系的も辿れるようになった。
古代日本社会が母系的か、父系的かという議論は、柳田国男が奈良・平安時代も一貫して父系だったと唱え、それに対して在野研究者の高群逸枝がその時代も母系だったと激しく反論し、大論争を巻き起こした末に、吉田孝が奈良・平安時代はどちらが強いというわけでもない双系的社会ではないかと折衷説を提案し、一般的通説となっているとのことだ。
なお、この論争では高群の平安・奈良時代の資料改ざんが発覚したりもしたのだが、それでも彼女の反論により、「家父長制はせいぜい平安時代大宝律令制定ごろまでにしかさかのぼれず、それ以前の古墳時代ヤマト王権時代)・弥生時代縄文時代には未発達であったのだから、日本の歴史全ての期間において家制度が存在したわけではない」ということが明らかになる議論を喚起した点で、重大な功績を残したと言っていいだろう。

これらをふまえ、憲法24条の「両性の本質的平等」はどのように解釈するのがいいだろうか。

男と女は、子どもが生まれた場合の機能が根本的に異なる。
女は、常に子どもの母であり、その義務から絶対に逃れることができない。
男は、父となれば義務を負うが、父は社会関係に由来するフィクションであり、子どもの父ではない可能性も事情によってはありうる。
生殖機能の違いから発生するこの埋めようのない差異を是正しようとすることこそ、男にとっての逆差別であり、婚姻によって父を擬制する制度自体廃止すべきとの意見もありうる。

しかし、現状その結論にならないのは、子育てが苦役と言っていいほど重大な負担であるからだろう。
権利利益や義務責任といった概念は、人が平等であるからこそ発生する。そもそも不平等な存在であれば、自分の負っている社会的な苦痛は自分自身が負うしかなく、誰かにその責任を負わせる論理的基礎がない。耐えようのない苦しみを抱いた時、「どうして私ばかり」「どうしてアイツは」という激しい憤りを抱くのは、人々は平等であるという真理を信じているからで、それは原始時代、古代、現代、未来のどの時代の人類もそうだったはずである。(そうであるから、インドのバラモン教はありもしない前世の責任を説いて現世での不平等なカースト制度を正当化した)。
「女の私ばかりが苦労して、男がなんの面倒も見ない」という感情も、男女が子育てにおいて差異がないという平等の観念に由来している。そうであれば、父を定め、母の負担を夫に負わせることによってはじめて両性の本質的平等が達成されるといえる。
その必要最小限の条件として、夫が確実に子の父であることを担保するため、夫婦には貞操義務があるとするのは、全く理にかなっている。
そして法は、生物学的父と社会関係的父の一致を原則としている。

しかし、これにより問題も生じる。男を父と定めるには、一定期間、一対一の閉じた関係が構成されていることが必要だ。
男の方は、最悪、複数の男と性交する状況に持ち込んでしまえば、婚外の女性と交われば、父であると断定できない。男にはそのような逃げ道さえあり得るから、不倫も許されやすいし、古代では重婚は禁じられていなかったから、父としての責任を負う覚悟があるならそうしてもよかった。一方の女性は、子どもは自分の腹から出てくるのだから、父を定めるためには開放的性を慎む必要が出てくるということが、両性の本質的平等から要請される。貞操義務は、女性に対してその意味合いがより強く働く。
義務の平等化のために、性的自由の面で男女の不平等が発生しているのは、腑に落ちない結論だ。

このような妥当性に欠ける結論にたどり着いたことからわかるように、ここまでに述べた子供の養育に関する父の設定の必要性はすべてを説明しきれていない。実際には、父を定め、父系ツリーを描くことには別の意義があろう。

母系制社会であることは、その社会の統治者が必ず女性であることを意味せず、長老妻の夫や、男兄弟が権力を持つこともありうる。しかし、たとえば長老夫婦に娘と息子がいて、息子が族外の女性との間にもうけた孫と、娘が族外の男性との間にもうけた孫では、後者が優先的に統治権を得る。(前者は、女性側の一族の権力者には就任する可能性がある)

母系制社会が持続するためは、男を族外から一族内に引っ張り込む必要があった。高群は、だから日本古典文学の中には「婿取り」を表す言葉が先代の作品にたくさん残っていて、「婿入り」を表す言葉はより後代の作品に現れてくると主張した。婿に入るといえば夫側の動作で、婿を取るといえば妻側の家の動作だから、昔の日本は母系社会の性格が大きかったといえる。
このような社会ではつまり、父には「婿を取って、実際に二人の間に子どもが生まれたときに、その婿を子どもからみたときに父と呼ぶこととした」という程度の意味合いしかなくて、母系氏族を維持するには、一族の女性が子どもを産むことこそが大事で、父はどうでもいいのだ。そこに女性の性を制限する理由は見当たらない。
子育ての権利義務うんぬんというのは現代のワンオペ育児の実情を目の当たりにする現代人の考え方だ。

そして、高群は、母系制が父系制に移り変わるのは、古代天皇家にもその痕跡が残されているという。天皇の妻(皇后)のことを「おきさき様」といったりする。このキサキという言葉をたどってみると、時には鬼前という字を当てた人もあるが、高群は日前とするのが正しいとする。日・火という字は「か行」の発音をするものであった。なるほど、3日(みっか)、火事(かじ)などの”か”だけにとどまらず、人の苗字には日下部(くさかべ)というのもある。日・火の前にいる女性がキサキであり、それはつまり火の前で儀式を執り行い、神に通じてその意思を通訳する女性を指す。キサキという言葉には本来王の妻という意味は一切なく、婚姻と族系概念の変化に伴って後付けされ、そのうちに王の妻の意味だけが残存したという。女性がシャーマン・巫女を務めるのは、邪馬台国卑弥呼の例をみても理解されるだろう。

ではなぜ父系制が強まったのか。
思うに、稲作が何世紀も続くと、一族と別の一族との間に、所有する土地の生産力の差に起因する貧富の差が拡大してくるようになり、しかも母系一族が新たに良い土地を確保したりすることは非常に困難だったのではないか。弱い一族が強い一族から婿を取れば、その婿に頭が上がらないというのは考えられる。そのような力関係の下で、夫は妻一族に婿入りするが、一族の中にあって夫婦のことについては主導権を獲得し、次第に一族全体の統治権を得たのではないか。一族の資産規模という社会的実力を用いて他の一族のM&Aを行うことを可能にするのは、母系制ではなく父系制だったのではないだろうか。
妻一族を支配するためには、妻の子供が確実に自分の子供でなければならない。そこで初めて、妻の側に強い貞操義務を求める論拠が発生する。実際に、天皇家はさまざまな一族(蘇我氏や吉備氏や春日氏など)に子どもを残し根を張りつつも、大化の改新などの皇位継承トラブルの末に、広範な国をまとめることができたのだろう。
そうだとすれば、父系社会は土地によって財産を築いた富める者が、貧しい者を懐柔してしまうためのシステムとして生み出されたのではなかろうか。現代国家では貧富の差は租税と富の再配分によって是正されるべきであるが、ヤマト王権邪馬台国にはそのような発想は当然なかったので、豪族による父系制社会の整備、中央集権化を許してしまった。

仮にそうであれば、婚姻した女性の性的自由が男性と事実上は同等でないということも、父系制社会に由来するものだということだ。
現代日本の婚姻制度や家族法、相続法そのものは、一見して男女の取り扱いに差をほとんど設けておらず(女性の再婚禁止期間はあるが)、全く平等な法になっているように見える。しかしそれは、一対一の関係のみに着目した場合にそうなっていて、本質的平等をたどると別の不平等が現れ、女性にとって不利となる規範が含まれている。大化の改新大宝律令以来1300年あまり続く家父長制による富の偏在の蓄積はとても重く、現行法はそれを覆すことができぬ程度にとどまっているといっていいのではないか。

かなり粗野なアイデアだが、一度相続制度を全廃して国庫に収めたのち、公平に分配するなどして、その財産の歴史を断ち切るといった、大胆な改革が必要と思われる。
あるいは、やはり法律婚を廃止するか、個人のレベルでは法律婚をしないということも考えられよう。民法上、婚姻関係のない男女に生まれた子どもは、必ず母の姓を名乗る。婚姻関係はなくとも、男は子を認知すれば父なので、子の扶養義務は生じる。現代において擬似的に母系氏族的な関係を作ることができる。
この場合、形態としては事実婚だから、税控除を受けられなかったり、子どもが父の社会保険に加入できないなどのデメリットがあるので、そのあたりを解決していこうということになる。しかし家父長制の歴史の重みを考えれば、そういう生き方をえらんで戦ってみるというのも意義があり、面白いだろう。

また、昨今天皇皇位継承問題についても議論が盛んになってきている。保守派は男系でないとだめで、女系の天皇などありえないという。この主張は、男が他の一族を乗っ取るという点に国民の祖(オヤ)としての地位と最高の権力の根拠があるのだということで、重要な問題だ。
僕は、そもそも天皇制はその歴史云々はともかく国民の権利制約根拠として法的に作用していて憲法からは省くべきだと思っているからどちらでもいいが、まぁ女系になったほうが生きやすい社会になるかなとは思う。

参考
・モルガン「古代社会」
エンゲルス「家族、私有財産および国家の起源」
柳田国男「婿入考」
高群逸枝招婿婚の研究」、「日本婚姻史」
・関口優子「日本古代婚姻史の研究」
・吉田孝「律令制と村落」
・栗原弘「高群逸枝の婚姻女性史像の研究」
・高嶋めぐみ「わが国における婚姻の実態的変遷」
・ブラックリッジ「ヴァギナ 女性器の文化史」

 

追記_2020/01/25

書いているときは一対一がすぐに現れると考えていたものの、その前段階に一夫多妻婚の形態があることに気づく。すなわち、父を定めるために女の関係は閉じていなければならないので、群婚から対偶婚(一対一の関係だが、相手以外との関係もゆるされる状態)に移行し、性的結合を1人の相手に制限する単婚となるか、一夫多妻婚はこの単婚に分類され、財産の相続者を定めるために夫も妻以外との関係を慎むべきという事情から、一夫一妻制となる。これは古代の天皇家にもみられる変遷である。

メモ コンクリートの中のペットボトル

飲食店の倒産がリーマンショック時を超え過去最多になる【アベノミクス】 [709039863] https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1560235455/249

249 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (オッペケ Sr93-679v) 2019/06/11(火) 16:14:09.83 ID:ve+8exAzr

申し訳ないがレジ袋のスレにあった書き込みを引用させていただきます

 

※ 111(2): 06/04(火)18:26 id:zPODI1Z+0(1) AAS コンクリートを作るためには砂が必要。

その砂に、今プラスチックが混ぜられているのを知っているか?

ペットボトルを粉砕した粉を砂に混ぜているのだ。

この砂は遠くから見ると薄紫とかピンクがかって見える。

綺麗だし、非常に神秘的だ。

だが、近くで手にとってみると、粉砕されたペットボトルという「ゴミ」混じりの砂で あることが分かる。 なんだかとても不潔な感じのする砂である。

こういうのを原料にコンクリートが作られているわけだが、コンクリートの寿命は 50年と言われているので、いつかはボロボロになる。

そうすればペットボトルの粉は分離し、雨水などによって下水に吸い込まれ、 最終的には海に流れ込むわけだ。 その量たるやレジ袋とは比較にならない。

しかも、コンクリに混ぜられたものは回収できない。

そして地盤の一部となってしまうから、そこから流れ出して必ず海に行き着く 運命にあるのだ。 こんな砂でコンクリートを作っていていいのか。

いつか海を駄目にしてしまうのは確実だぞ。

憲法27条「勤労の義務」は資本家不労所得を牽制するものではない

憲法27条「勤労の義務」は、もとは資本家の不労所得を牽制する趣旨だった件|弁護士ほり|note

https://note.mu/horishinb/n/nb98c9be5b956

 

これは違います。ダメですよこんなの、日本社会を甘く捉えすぎています。

憲法論議をするときにまず参照すべき日本国憲法審議録という超重要な資料があるのに、それを読まなかったんだなというのが分かります。

①まず、衆議院での勤労の義務を追加する修正提案の理由説明をみると、25条で生存権を認めることと交換的に勤労の義務をいれてバランスを取るのが良いということが明確に言明されています。
このような交換条件は、生存権保障の施策を受けるべき対象と勤労の義務を負うべき対象が同一であるからこそ成り立ちます。
生存権保障を受けなくともある程度やっていけるはずの資本家や地主が勤労の義務を負わされる趣旨だと解釈したのでは利益と不利益が対立せず、非論理的です。

 

 

②次に、金森徳次郎大臣は、日本国憲法の作成・修正にあたっては「経済上のイデオロギーや特殊の学問上のイデオロギーに関係なく、その文言・文字そのものとして受け入れる」ことが社会的に許容されるか否かという基準によることにしており、その立場から衆議院の当該修正に政府として賛成したと述べています。
つまり、資本家や地主の不労を制限すべきであるというような社会主義的文脈で使われる「勤労の義務」の意味は、日本国憲法上の「勤労の義務」にはそもそも含まれないということです。
この点でリンク先記事のタイトルには大きな誤りがあります。

 

 

③仮にそのような趣旨が日本国憲法上の「勤労の義務」に含まれるとしても、さまざまな主義主張を有する政党・議員で構成される議会で審議された以上、最終的な議会の意思決定としては社会主義的趣旨と、保守派?の一般国民感情的趣旨(権利の前に義務論)が少なくとも併存し、前者趣旨が後者趣旨を排除するとは到底考えられません。
リンク先の記事は、上述の議会の意思決定の趣旨と、いち政党の修正提案の趣旨を混同して「現代では正反対の意味で捉えられ、皮肉」と結論づけていますが、憲法上の勤労の義務には当初から"正反対の意味"が含まれているのであり、不適切です。

 

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上記3点から、日本国憲法の「勤労の義務」の文言を残したまま、その文言を社会主義的趣旨で解釈し、「権利の前に義務」を排除することは絶対無理だと思います。
だいたい、日本国憲法が素晴らしいものという空想は捨て去るべきです。ホントに素晴らしい憲法だったら、日本はこんなに落ちぶれてません。
日本国憲法の「勤労の義務」は、憲法改正で排除(または社会主義的趣旨を追加)しなければならないのです。

同性婚は憲法24条1項で認めるべきではない。

 

日本国憲法 第24条1項

婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。


同性婚を認めようという主張では、この「両性の合意」のなかに男性―男性、女性―女性も含めるとの解釈が主流っぽいけど、無理筋だろうと考えている。

憲法解釈に社会的事実を加味しすぎる(憲法社会学化)のは良くない。自衛隊が今や国防軍と実質的に変わらないからと言って、憲法解釈を変えてはならないことを例に出せば、わかりやすいだろうか。

あくまで、現行憲法の想定する国民や社会の形には限界があることを前提にしないといけない。

そのうえで、同性婚の許容性は、24条2項の「尊厳」から導くべきだろうと個人的には考えている。


24条1項から同性婚が認められるべきとする主張例。
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a196257.htm
逢坂誠二議員が質問主意書を提出しているのを見つけた。

 

======引用======

日本国憲法下での同性婚について、以下質問する。
一 現在、同性婚日本国憲法第二十四条第一項に反し、違憲であると考えているのか。政府の見解如何。

======終了======

 

他にもいくつか質問が並び、前書きもあるが、24条1項に触れこそすれ、2項には言及がない。まぁあたりまえか。

 

確かに、封建的家制度から個人を解放することこそが、24条1項の「両性の合意のみ」の根源的趣旨であるから、同性同士であることで婚姻を禁止しているとするのは型にはまったものの見方だという主張はよくわかる。万人が平等であるべきとする14条の理念を守るための尊い主張である。


しかし、婚姻は、子孫を残す生物的使命を前提として、その使命を果たすことを容易ならしめるために、租税等の面で優越的地位を与える制度であろうから、やはり24条1項は、異性同士の婚姻、家族を前提としてると考えるべきなのだろうと思う。

現行の養子制度も、家という部分社会を認め、ひいては子孫繁栄をなすためにある。
だから、「同性同士でも養子縁組で子どもを育てられるなら、子孫繁栄につながる」という反論は憲法解釈上は失当だと、個人的に思う。
もちろん、社会的事実としてはその反論はありじゃないとおかしいのだが、あくまでも現行憲法はそういう制度の使い方を想定していないという話。


一方、24条2項はこの様に規定している

 

24条2項

配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 

現行憲法の中で唯一「尊厳」という単語が現れる。その意味を考えるべきだろう。

尊厳に近いニュアンスでは、13条の「個人の尊重」がある。
尊重は、本人が行う動作でなく、他者が本人に対して行う動作だ。つまり国家等の"第三者"が個人平等原理などに基づいて、個人を"客観的"に差別されていない状況を醸成すべしとの規定であり、それを実現するために各種人権が規定されている。

 

対して、尊厳は、主として"本人"が自尊心を害されたか否かを"主観的"に把握する概念だ。

 

このような概念の区別をすると、個人の尊重の結果により客観的には差別されていないように見えても、主観的には尊厳が踏みにじられていると感じる状態が生じうる。

人権保障の全部の分野で主観的なものを保障することは事実上困難で、憲法上尊厳という言葉を多用できない。
それでも、婚姻が種の繁栄に必要不可欠な制度かつ、婚姻、家族、財産等については、主観的な劣等感を抱かせることが常だから、この条項には特に「尊厳」という言葉を用いたと思われる。

 

そこで、尊厳という言葉は「本人が観念する一般人と自己を比較することによって抱く劣等感を補てんし、治癒される権利」と解し、24条2項は家族法等の分野においては、それに基づいて法が規定されなければならないと解するべきだ。

そうすると、同性婚を認めるか否かという問題については次の通りの論理で解決する緒も出てくる。
すなわち、24条1項は異性婚のみを対象にしているから、それが憲法上の一般人の姿であって、それが出来ない普通でない同性愛者は劣等感を抱く。
その劣等感を治癒されるためには、異性婚とは別に何らかの制度が存在すべきところ、民法等が異性婚のみを規定し、同性婚の規定を設けていないことは24条2項の精神に反し違憲である。

僕は尊厳の内容を定義することによって、このように解釈すべきだと考えている。


逆に、24条1項の「両性」に同性の意味が入ってしまうと、これが導けない。憲法が、制定当初から同性愛者は一般人だということを認識していたことになり、同性愛者は劣等感を抱かず、尊厳を維持すべき主観的事情がなくなってしまうからだ。

 

ところで同性婚が24条2項で導かれると解した場合には、たとえば異性婚下の養子の権利義務関係と同性婚下の養子の権利義務関係について、その婚姻の本質的な差異から、尊厳が損なわれない限り異なる取扱いが許容されることになる。
これはむしろ同性婚家族当事者にとって重要なことではないかと思う。

普段、憲法解釈のことなど考えもしないと思っているが、日本国憲法は日本人の常識的な価値観をとても良く取り込んである。

よくあるのが、「生活保護を受ける前に働くべし!」との観念。自然権思想からすれば極めて不自然な勤労の義務があえて憲法上に規定してあって、一般人の常識的価値観と憲法解釈が合致するようになっておる。
そうであるから、逆に憲法の解釈方法によって、一般常識も影響を受け得る。

 

その理解の上で、同性婚下の子供に例を戻すと。
社生活の中で、他人から「おまえんち、なんで父親2人おるの?ヘンじゃない?」という投げかけに対して
「そもそも家族のタイプには男女タイプと男男タイプがあって、持ってる役割が違うのさ」と、そういうことがいとも簡単に言えるようになる。

これが重要な尊厳保障の機能だ。


それでも、異性婚と同性婚憲法上根拠が異なるのはおかしいという人もいるだろうが、日本国憲法は万能じゃない。上述の勤労の義務の例のように、理想と現実を整合させるための権利制約のしかけが様々にある。

不平等だと思うならば、それは憲法改正で対応すべきことなのだ。

 

ここまで、一応見かけ上は論理的に説明してみたが、実はつながってないところがある。
それを公表してしまうと、このアイデアをたまたま見つけた人が僕より先に論文を仕上げてしまう可能性があるから、書かない。

メモ、賃金統計不正(旧公表値と再集計値)

【悲報】根本厚労相アベノミクスで賃金3.3%上昇が間違っていたかはそれぞれの判断」 [723267547]
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1548320027/

 
78 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイ 31ce-L3L3) 2019/01/24(木) 18:15:22.49 id:MDcxU36L0
■2018年分の名目賃金・実質賃金増減率(現金給与総額、指数前年同月比%ポイント)改定まとめ

用語の説明
旧公表値:従来、厚生労働省が実績として公表してきた値
共通事業所の再集計値:18年1月に実施された調査方法変更の影響を受けず、かつ、一連の抽出不正が補正された、厚生労働省が実態を表していると主張する値
▲:マイナス

名目賃金
2018-01分 (旧公表値) 1.2 →(共通事業所の再集計値) 0.3
2018-02分 (旧公表値) 1.0 →(共通事業所の再集計値) 0.8
2018-03分 (旧公表値) 2.0 →(共通事業所の再集計値) 1.2
2018-04分 (旧公表値) 0.6 →(共通事業所の再集計値) 0.4
2018-05分 (旧公表値) 2.1 →(共通事業所の再集計値) 0.3
2018-06分 (旧公表値) 3.3 →(共通事業所の再集計値) 1.4
2018-07分 (旧公表値) 1.6 →(共通事業所の再集計値) 0.7
2018-08分 (旧公表値) 0.8 →(共通事業所の再集計値) 0.9
2018-09分 (旧公表値) 0.8 →(共通事業所の再集計値) 0.1
2018-10分 (旧公表値) 1.5 →(共通事業所の再集計値) 0.9
2018-11分 (旧公表値) 2.3 →(共通事業所の再集計値) 1.0
https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031789507&fileKind=0
https://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/monthly/30/3011r/xls/kyo3011r.xls

実質賃金
2018-01分 (旧公表値)▲0.6 →(共通事業所の再集計値)▲1.4
2018-02分 (旧公表値)▲0.8 →(共通事業所の再集計値)▲1.0
2018-03分 (旧公表値)  0.7 →(共通事業所の再集計値)▲0.1
2018-04分 (旧公表値)▲0.2 →(共通事業所の再集計値)▲0.4
2018-05分 (旧公表値)  1.3 →(共通事業所の再集計値)▲0.5
2018-06分 (旧公表値)  2.5 →(共通事業所の再集計値)  0.6
2018-07分 (旧公表値)  0.5 →(共通事業所の再集計値)▲0.4
2018-08分 (旧公表値)▲0.7 →(共通事業所の再集計値)▲0.6
2018-09分 (旧公表値)▲0.6 →(共通事業所の再集計値)▲1.3
2019-10分 (旧公表値)▲0.1 →(共通事業所の再集計値)▲0.8
2018-11分 (旧公表値)  1.3 →(共通事業所の再集計値)  0.0
https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031789525&fileKind=0
https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031431697&fileKind=1

弱者ー惹者ーじゃくしゃ

 

浄土真宗の祖親鸞聖人の語録『歎異抄』の末に、次のような言葉がある。
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」

現代訳をネットから引っ張ってくると、「阿弥陀如来が五劫という長い時間をかけて思案を尽くして建てられたお誓いをよくよく考えてみると、つくづくそれはこのわたし(親鸞)ただ一人に向けての救いの御心であった」ということのようだ。
阿弥陀仏の教えは万人に向けられたものであると考えるのがふつうで、それを自分ひとりだけに向けられたものだと捉えたというのは、いくら親鸞が高僧侶といえども甚だおこがましい発言にも思える。

親鸞の真意を探るなら、その答えは新約聖書のなかにあるように思える。

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新約聖書マタイによる福音書第25章(34-40)
-そこで、王(イエス)は右側にいる人たちに言う。
『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

すると、正しい人たちが王(イエス)に答える。
『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』

そこで、王(イエス)は答える。
『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

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この最後の言葉は、イエスが弱き者たちのなかに自身を重ね合わせ、その人の苦痛を自分の問題として立ち向かう意識があるからこそ、放たれた言葉だ。
親鸞も、救われなければならぬ者たちに自分を重ね合わせるからこそ、阿弥陀仏の教えは自分に向けられ、自分の眼前にいるすべての人々に向けられているということを表したかったのではないかと思う。

宗教の違いを問わず、程度の差はあれ、どのような人間であってもこのように弱い他人に自分を重ね合わせて、その困難に立ち向かおうとする本能が眠っている。

病者に向かう医者。
または法や社会のバリアに向かう政治家や法曹。
または老者に向かう介護者。
または子に向かう親。
私に向かうあなた。
あなたに向かう私。

このような、社会性という人間の生物的特徴との関係でみれば、「じゃくしゃ」という言葉には「弱者」ではなく、「惹者」という字を充てる方が適当ではなかろうか。
人間は弱者に惹きつけられ、弱者の中に困難や課題を見出し、まるで自分のことのように立ち向かおうとする。
惹者のいない世界は西方極楽浄土だが、惹者を介して魂を喚起するこの世界は。
なるほど、苦海浄土というのだろう。

ホッブズ、ロック、ルソーの違い

簡潔でためになるので保存

 

72 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (アウアウエーT Sadf-cC+K) 2018/09/17(月) 13:06:12.41 id:c8O7IlZca
こういう政治思想は基礎知識として知っておかないとね

ホッブス
 人間の本性: 自己保存の欲求・他者への虚栄心
 自然状態: 万人の万人に対する闘争状態
 社会との契約内容: 自然権を国家へ譲渡
 政治体制: 君主制

【ロック】
 人間の本性: 社会的で理性的な存在
 自然状態: 自由・平等(やや不完全なもの)
 社会との契約内容: 自然権の保証を求める
 政治体制: 議会制民主主義

【ルソー】
 人間の本性: 自己愛と他者へのあわれみ
 自然状態: 生まれながらにして自由・平等
 社会との契約内容: 一般意志に基づく国家への服従
 政治体制: 直接民主主義

福島みずほ議員の高プロQA on twitter

福島みずほ@mizuhofukushima
今日高度プロフェショナル法案という名の残業代ゼロ法案、定額働かせ法案が成立。怒りと悔しさでいっぱい。しかし、全国過労死を考える家族のみなさんの記者会見の記事を読み、過労死をゼロにしていくこと、裁量労働制高プロの運用をしっかり監視すること、法律改正、法律を作ることをやっていきます
高プロについてQ&Aを作ってみました。

1 Q 高プロとは、なんですか?
A 高度プロフェショナル法です。一定の職種、一定の年収以上で、会社の決議で、本人が同意して、高度プロフェショナルとなります。労働時間、休日、休憩、深夜業の規制がなくなります。割増賃金は払われません。

2 Q時間ではなく、成果で評価される働き方はいいのではないですか
A 成果で評価されるとはなっていません。今の賃金制度でも成果型賃金体系はありますよ。賛否両論ありますが。

3 Q 裁量がある自由な働き方のほうがいいです
A 残念ですが、裁量という条文はありません。仕事の量を働く人は選べません。ですから、使用者に要求されるまま猛烈に働くことになります。

4 Q 1ヶ月休みをとってアメリカやヨーロッパで勉強なんてできるかも。
A 残念ですができないでしょう。仕事の量は選べないので、休めません。休むのなら、高プロを外れて、ノーワーク、ノーペイという答弁もありました。

5 Q 高収入の特別の人だけでしょう。
A 条文では、平均年収の3倍以上となっています。この年収にはパートも入っています。1075万円とも言われていますが、税金と保険料を控除すると手取りは800万円を切るというのが政府の試算。手取りのなかに住宅手当、家族手当、通勤手当なども入ります。

6 Q 年収1075万円以上なんて自分には関係ないよ
A 法律を変えればいくらでも下がります。 現に、2005年、経団連は、4,00万円以上と提言をしています。

7 Q 新入社員も対象になりますか
A はい、なります。入社試験で、「高プロで働きますか」と聞かれて、「いいえ」と言えば、高プロ以外で働くことになるというのが、政府の答弁ですが、おそらく採用されないでしょう。

8 Q 労働者は、同意をしなければ、高プロにならないので、問題ないのではないか。
A 使用者と労働者は対等ではない。NOと言える人がどれだけいるか。企画型裁量労働制も同意を要件としているがどれだけの人が拒否をしているか。過労死している人もいる。政府は実態調査をしていない。

9 Q 労働時間の規制がなくなるというのはどういうことでしょうか
A 24時間48日間、働かせても違法ではありません。割増賃金という概念も無くなります。もちろん払わなくても違法ではありません。使用者は労働時間の管理をしなくてもよいのです。賃金台帳に、労働時間も深夜業なども書かれません。

10 Q 使用者は労働時間を管理しないとして、全く何もしないのですか。
A 使用者は健康管理時間を管理。行わなくても労働基準法違反にはならない。政府は事業場内はタイムカードやパソコンによって把握し、できないときは管理者が現認すると答弁!事業場外は自己申告。過労死しても立証が困難に。

11 Q どんな業種が対象になるのですか
A 条文には業種は書かれておらず、政省令に委ねられます。つまり、法律改正をしないでいくらでも拡大できるのです

12 Q 女性はどうなるのでしょうか A
労働時間の規制がないということは、バリバリはたらくことを期待され、時間を気にせずに働く仕事の量になるのではないか。家事、育児、介護などの責任を持つ人は、高プロでは働けないのではないか

13 Q 高プロで働いていて、途中で育休はとれますか
A とれます。育休に基づく支払いになります。しかし、高プロの給料の支払いの仕方が毎月30万円ずつで年末にどーんと払うという支払い方法だと年の途中で高プロをやめるとどうなるのか大問題です

14 Q 高プロが無効になった場合、賃金はどうなるのか
A 定額年収ではなくなるので、基本給プラス遡って、割増賃金を計算して支払うというのが政府の答弁。しかし、労働時間を管理していなくて、それができるかは疑問。

15 Q 自由に働きたいので、必要な制度では
A 今でも、フレックスタイム制裁量労働制はあります。また、有給や欠勤で調整することもできます。今でもできますよ。

16 Q 会社の中で、みんなの賃金が頭打ちになるのでは
A その通りです。高プロ以上の給料の人が出てくるでしょうか。大臣は、役員や割増賃金を多くもらう人ととうべん。役員は労働者ではないし、サービス残業が横行するのでは

17 Q 過労死は増えますか
A 残念ながら、そう思います。過労死を考える家族の会の人たちは大反対をしてきました。使用者は、割増賃金を払わなくてよくて、労働時間の管理をしないのであれば、過労死も「自己責任」「自分の管理が悪い」となるのではないか。

18 Q どうしたらいいでしょう
A 法律廃案、法律改正、作動させない、会社の中で取り組む、組合で取り組むなどやれることをやっていきましょう

かぐや姫とナウシカ

金曜ロードショーかぐや姫の物語が放送されたようだけど、僕は風の谷のナウシカ(漫画版)のアナザーストーリーという印象を持っている。

風の谷のナウシカ(漫画版)は、火の7日間後のヨーロッパ地域を舞台にナウシカがわがままを貫き通して、古代文明の遺産を破壊して自ら望んだ未来を掴み取る物語だった。

かぐや姫の物語」のキャッチコピーは「姫の犯した罪と罰」。作中でなんとなくかぐや姫が説明するところはあるけど、それがいったいなんなのかは曖昧なまま。

竹取物語では、仏教的思想から、「苦悩に満ちた世界に生きることが苦痛=罰」であり、「月(浄土)の人であるにもかかわらず生を憧れるということ=罪」である。

一方本作では農村的な人間らしい生き方にかぐや姫が強い魅力を感じていて、罪と罰を原作と同様に解釈していいとは言いにくい。
罰は、およそ罪と反対のことを強いるものであるので、その観点からすれば、本作の「罪=憧れ(望み)」にたいする罰は「憧れや望み(の実現)を禁止すること」となる。

つまり、かぐや姫は与えられたものを享受することしかできなくて、拒否することができない。自分の好きな生き方を自分で選び取ることができない。
作中では帝の夜這いによって「もうこんなところは嫌だ」との思いを抱いてしまったために強制送還執行されることになるわけだけど、野山を捨てて都にでるところとか、求婚とか、心から嫌だと思わせる出来事はたくさんあった。

それでもかぐや姫は自分で自分の生き方を望んだりすることが出来ない。翁のいうことを聞かなきゃいけないから、都に出るしかないし、しとやかに振る舞ってみたり、求婚に条件をつけて自分から断らなくて良いように対処するということになる。
ナウシカと同様、本質的には天真爛漫で、自然を愛し優しい心をもったかぐや姫だけど、自らが憧れた生き方を実現しようとすれば、それ即ち現状の否定となり、その時点で地球での生活は終了する。それが罰であるからこそ、羽衣を着て全てを忘れ去っても、月への帰り際に涙をながす。

このように、かぐや姫自己実現の機会を完全に奪われているので、ナウシカの生きている世界より残酷だといえる。
ナウシカかぐや姫も「自分を生きる」ということをあきらめるなというメッセージなのだと思うけど、今の現代社会がどちらの世界に近いかといえばかぐや姫の方であることは明らかで、その分宮﨑駿より意見圧がすごい。